エレミヤ書1:4-9 マルコによる福音書13:32-37
マルコによる福音書13章の小黙示録と言われる、世の終わりと終わりのしるしに ついて語られた主イエスの言葉は、終わりの日に備えてわたしたちはどのように生き るべきかが教えられています。終りの時、天地が揺らぐような大きな転変地変と苦難 がきわまったところで、人の子の再臨と天の四方から選ばれた民を呼び集める、と語 った後で、その時は予期しないときに突然来るから、繰り返して「目を覚ましていな さい」と警告されます。終わりの時に向かって「目を覚ましている」ということはど ういうことなのでしょうか。 ルカによる福音書では「放縦や深酒や生活の煩いで心 が鈍くならないように注意しなさい」と具体的なことが書かれています。マタイによ る福音書では、同じ所でたくさんの譬えが語られています。タラントの譬えとか「最 も小さい者の一人にしたのはわたしにしたのである」ということばなど・・・。ユダ ヤの人々はこれらの福音書が描かれる直前にエルサレム神殿の崩壊とイスラエルの国 の消滅というまさに世の終わりを経験していますから、終わりに向かってどのように 生きるかという問題は、きわめて現実的な問題であったことから、これらの主イエス が語られたたくさんの譬えを生き生きと思いだしたことが容易に想像されます。高齢 社会に生きる私たちも、終わりを意識しないわけにはゆきません。終りに向かって目 を覚ましている生き方はどのような生き方なのかはわたしたちの実存にもかかわって きます。 主のみ言葉はここで高らかに響きます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して 滅びない。」この力強い言葉が告げられ、その言葉の不思議な力に魅了されます。し かし、天と地が滅びるということは、その中に生きる私たちも滅びるしかないという ことであるはずです。しかし、この滅びの中でも、人の子の再臨と共に、主の言葉を 聞き、呼び集められる者の命もまた、この天と地が滅びても滅びない命があります。 とするならば、終わりに向かって目を覚ましているということは、終わりの事象に目 を覚ますことより、天地は滅びても滅びない命を与えて下さる方に向かって目をさま していることにほかなりません。