イザヤ書12:1-6 ヨハによる福音書20:1-18
ヨハネによる福音書が伝える主イエス・キリストの復活の出来事、「わたしは主を 見た」という証言がどのようにして起こったかをよく見ると、わたしたちが今、主の 十字架の死と復活を信じ、そこから生きるその過程を顧みることができます。 マグダラのマリアは、朝早く主イエスの遺体が納められているはずの墓に行きます が、布だけが残されていることに気づき、ペトロともう一人の弟子に伝えます。二人 の弟子たちは急いで墓に駆けつけますが、二人は、マリアの言ったことを確認するだ けでした。これが復活の証言の第1ステージです。「主が墓から取り去られた」、 「どこかに運び去った」、「どこに置かれているのかわからない。」マリアは主イエ スを「もの」とみなし、置かれているものを探しています。また、二人の弟子たちも 墓の中にまで入ってきて、「見て、信じた」と記されていますが、彼らが信じたもの は何か。それは主の不在です。マリアと弟子たちが確認し信じことから何が起こった か。驚くべきことに、「それから、この弟子たちは家に帰って行った」それだけです。 何も行動が起こせずにいるのです。キリストの教会が復活の信仰を語るとき、ただ空 の墓とキリストの不在を語るだけだとしたら、世界のキリスト教は一体どうなってい たことでしょう。マリアにしても、二人の弟子にしても、人間の側でできる復活の証 言の限界がここにあるとも言えます。 第二のステージがここからはじまります。墓を前にして泣いているマリアに、墓の 中からの天使の問いかけ、マリアの後ろからの主イェスの問いかけ、「婦人よ、なぜ 泣いているのか。」次に、「マリア」と名を呼んで下さる主の呼びかけ。ここでマリ アの目が開かれます。不在の信仰から生きた主との出会いへ大きく展開するのです。 「わたしは主を見ました」との証言は、マリアからでた証言であるより、復活の主ご 自身の働きが先行しています。主はここから、わたしの父、またあなたがたの父、わ たしの神、またあなたがたの神のもとに上ることを伝えるようにマリアに命じます。 復活の主を見たという証言が終わりではないのです。命の道を伝え示す働きが課せら れています。
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