4月26日
2009年4月26日

「 この人にできるかぎりのこと 」

ゼカリヤ書3:1-10 マルコによる福音書14:1-9


 十字架へと一筋の道をたどる主イエスをめぐる人々のふるまいは、イスカリオテの

ユダの裏切りや弟子たちの逃走、ピラトの無責任さなど、人間の弱さをあらわに描き

出し、わたしたちの中にある暗闇を見つめさせます。その中で、ただ一つ闇ではなく

光を、腐臭ではなくかぐわしい香りをただよわせる出来事、それがナルドの香油を主

イエスに注いだ女性の話です。「この人はわたしによいことをしてくれた。」「世界

中のどこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り

伝えられるであろう」と、高く称えられたこの女性の行為の何がよいといわれるので

しょう。

 この女性は、300デナリもする高価な香油をもってきて、壺を壊し、それをみん

なの見ている前で主イエスの頭に注ぎかけたというのですから、どう見てもそれは異

常な行為です。その女性の素性や動機について福音書は何も告げていませんが、明ら

かに、その行為によって彼女はそれまでの生き方、価値観のすべてを主イエスの前に

投げ出しているのは確かです。主イエスとの出会いはそのような行為へと彼女を駆り

立てずにはおかなかったのでしょう。その点で、「主イエス・キリストを知る知識の

絶大な価値のゆえにいっさいのものを損と思っている」と語るパウロの信仰に通じて

います。したがって、この行為は過去の償いなのか、主イエスへの感謝なのか、分か

りません。

 貧しい人に施した方が、と憤る弟子たちに主イエスが語られた言葉は不思議なパラ

ドクスを含んでいます。貧しい人はいつもいるが、わたしはいつまでも一緒にいるわ

けではない。彼女はわたしの葬りの用意をしてくれた、と言うのです。主イエスは

「昨日も、今日も、いつまでも、あなたがたとともにいる」と約束して下さる永遠の

方であるはず、また、貧しい人々はこの世的な一時的な存在であるはずですが、ここ

ではその関係が逆転しています。主の十字架の事態はまさにそのような事態ですが、

その事態に即して、今、ここで、この人にでなければならない仕事、そこにこそ、わ

たしたちのなすべき良い仕事があることを、主イエスは教えています。愛の業とはそ

のようなものだ、と。


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