ゼカリヤ書3:1-10 マルコによる福音書14:1-9
十字架へと一筋の道をたどる主イエスをめぐる人々のふるまいは、イスカリオテの ユダの裏切りや弟子たちの逃走、ピラトの無責任さなど、人間の弱さをあらわに描き 出し、わたしたちの中にある暗闇を見つめさせます。その中で、ただ一つ闇ではなく 光を、腐臭ではなくかぐわしい香りをただよわせる出来事、それがナルドの香油を主 イエスに注いだ女性の話です。「この人はわたしによいことをしてくれた。」「世界 中のどこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り 伝えられるであろう」と、高く称えられたこの女性の行為の何がよいといわれるので しょう。 この女性は、300デナリもする高価な香油をもってきて、壺を壊し、それをみん なの見ている前で主イエスの頭に注ぎかけたというのですから、どう見てもそれは異 常な行為です。その女性の素性や動機について福音書は何も告げていませんが、明ら かに、その行為によって彼女はそれまでの生き方、価値観のすべてを主イエスの前に 投げ出しているのは確かです。主イエスとの出会いはそのような行為へと彼女を駆り 立てずにはおかなかったのでしょう。その点で、「主イエス・キリストを知る知識の 絶大な価値のゆえにいっさいのものを損と思っている」と語るパウロの信仰に通じて います。したがって、この行為は過去の償いなのか、主イエスへの感謝なのか、分か りません。 貧しい人に施した方が、と憤る弟子たちに主イエスが語られた言葉は不思議なパラ ドクスを含んでいます。貧しい人はいつもいるが、わたしはいつまでも一緒にいるわ けではない。彼女はわたしの葬りの用意をしてくれた、と言うのです。主イエスは 「昨日も、今日も、いつまでも、あなたがたとともにいる」と約束して下さる永遠の 方であるはず、また、貧しい人々はこの世的な一時的な存在であるはずですが、ここ ではその関係が逆転しています。主の十字架の事態はまさにそのような事態ですが、 その事態に即して、今、ここで、この人にでなければならない仕事、そこにこそ、わ たしたちのなすべき良い仕事があることを、主イエスは教えています。愛の業とはそ のようなものだ、と。
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