出エジプト記21:26-32 マルコによる福音書14:10-21
主イエスを裏切り、十字架の死へと追いやったイスカリオテのユダ。12弟子のひ とり、主イエスの働きを近くで経験し、あれほどの愛と使命と力をいただきながら、 どうして、そんなことをしたのか。主イエスとの関わりはどうだったのか。 イスカリオテのユダの裏切りによって大きな歴史がここで一挙に実現に向かいます。 興味深いことに、祭司長たちの願いとユダの裏切りの間に、ナルドの香油を注いだ女 性の話が挿入されています。ユダの行動とナルドの香油を注いだ女性の行動は決定的 に違いますが、どちらも主イエスの愛に対する応答です。そして、主イエスが女性に 「わたしの葬りの用意をしてくれた…世界中どこででも福音が宣べ伝えられるところ では、この人のしたことも記念として語られる」と、言われたことは、イスカリオテ のユダにも当てはまります。それは、神のみ子、主イエスの人の子としての地上の歩 み、神の国の福音に対する人類全体の応答的な行動が、この二人の人物によって代表 されているように見えます。どんなに純粋な神の愛の現れに接しても、自己愛のフィ ルターを通して受け止められるとき、愛と憎との全く違った反応が起こります。こう した人間の反応の中で主イエスの十字架の死を通して実現される神の国の根源的な使 信が証しされていくのです。 ユダの動機は何だったのか、他の福音書と違ってマルコは「イエスを引き渡そうと した」とだけ記してほかに何も語っていません。「引き渡す」と言う言葉と「裏切る」 と言う言葉は、原文では同じです。引き渡すということは、その人の存在を自分の手 ではなく他者の手で抹殺するために手渡すこと、表の顔、表で言っていることと、裏 の顔、裏の行動が相反していること、信頼と愛に対して逆のことをもって答えること、 一貫した信頼できる人格であることを捨てて卑怯な無責任な人間になるということ、 です。主の十字架への道は、実に、この人から人へ引き渡しの連鎖によって起こって いることに気付かされます。主イエスの使徒として選ばれ、共に歩んだ人と主イエス を裏切る人と、これほどの大きいアンバランスは他に類を見ません。この落差におい て、わたしたちは人間の罪の深淵を見るのす。贖われるべき罪を。
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