出エジプト記24:1-8 マルコによる福音書14:12-26
主イエスが十字架につけられる前夜、弟子たちとともに最後の晩餐をしたこと、そ のときにパンやブドウ酒の杯を分かち合って、「これはあなた方のために裂くわたし の体、罪の赦しのために流す新しい契約の血」と語られ、ご自身の十字架の死の意義 を語り明かされました。大変重要なこととして代々の教会は礼拝の中でこれを記念し てきました。最後の晩餐は、ユダヤの過越祭のときに行われる「過越の食事」で、福 音書は主イエスが弟子たちとともに過越の食事をするために、特別な準備をしておら れたことを伝えています。その準備には、エルサレム入城のときに子ロバを用意した 時のように、主イエスの不思議な人脈が用いられてることに気づかされます。「過越 の食事をなさるのにどこに行って用意をいたしましょうか」と弟子たちが尋ねると、 主はすでに手はずが整っているかのように用意すべき場所を教えられたのです。それ は、弟子たちには全く想像のつかない人脈で、主イエスはご自身の働きの重要な場面 でそれをお用いになるのです。ガリラヤからの旅人、寄留者に過ぎない人々が、しか も当局が何とかして抹殺しようと企てている人々が過越しの食事をするためにエルサ レムの街の中に場所を提供する、このような関係は並大抵な関係ではないはずです。 主イエスが二人の弟子を遣わして、過ぎ越しの用意をする場所に行かせた時、その 場所を見つけるための目印は何か。これが実にユニークで、使徒の後に続くわたした ち主の弟子が主の御用を遂行するための場を確保する基本戦略を教えています。まず 第1の目印は、「水瓶を運んでいる人に出会う。その人について行きなさい」です。 動かない場所、通りや建物ではなく、動いている人が目印です。第2の目印は「水を 運んでいる人が、あなたがたを見つける」です(新共同訳ではそのことがはっきりわ からないように訳されていますが)。あなたがたが・・・見つけるのではないのです。 この二つの意外な目印のことを思いめぐらすと、実に、主の教会が人類の歴史の中で 働きを進める場を見つける仕方を顧みると、主がこのような意外な人脈を用いられる こと、これを知るには独特の目印の見分け方があることを知らされます。
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