5月24日
2009年5月24日

「 わたしはつまずきません 」

ホセア書6:1-6 マルコによる福音書14:22-31


 主イエスが十字架につけられる前夜、最後の晩餐をしたこと、パンやブドウ酒の杯

を分かち合って、「これはあなた方のために裂くわたしの体、罪の赦しのために流す

新しい契約の血」と語られ、ご自身の十字架の死の意義を語り明かされました。この

食事は、過越しの食事で、空腹を満たすための食事ではありません。特に、この時に

語られた主の言葉が示すように、新しい契約に入る食事で、それにあずかる者は契約

の当事者となり、責任が伴います。聖餐にあずかる者が洗礼を受けて信仰を告白した

ものという限界を設けているのも、ここにその起源があります。

 主イエスが、パンと杯を「これはわたしの体である。これはわたしの血である」と

いって弟子たちに分けられましたが、そこで語られた「・・・である」の意味をめぐっ

て、代々の教会は議論を重ねてきました。文字通り、パンはキリストの体に、ぶどう

酒はキリストの血に変わったのだと理解するカトリック教会、いやそうではなく、パ

ンとブドウ酒はわたしたちのために十字架につけられて贖いとなってくださったキリ

ストの体や血を記念し、想起するためのものだと主張するツウィングリ、いや、パン

の下に、パンとともに、パンに隠れて主イエスは現におられるのだと主張するルター、

聖餐の意義をリアルに生きた主イエスと結び付けるかに代々の教会がいかに心を砕い

たかがわかります。しかし、生きた主イエスの現臨は、想像力をどれほどたくましく

しても、わたしたちのものとなるものではなく、ただ聖霊によって、主のみ言葉が真

にわたしたちの心の奥底に届くかにかかっています。聖餐は、まさにみ言葉と聖霊に

よって主との神秘的な一致をもたらすものであるからです。

 興味深いことに、この重要な出来事、主イエスの十字架と復活の意義を明らかにす

る最後の晩餐は、イスカリオテのユダの裏切りと、「今夜、鶏が二度鳴く前に三度わ

たしを知らないと言う」とペトロの否認の予告で囲まれています。新しい契約に入る

はずの人々があからさまに名前を特定されて、主の十字架にかかわる人となっていま

す。「わたしはつまずきません」というペトロの言葉もむなしく。主の体と血は、まず、

この人たちのためでした。


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