19980906
1998年9月6日

「満ちあふれる豊かさにあずかる」

エフェソの信徒への手紙3章18−19


 人は「愛」を知ることができるでしょうか。外の景色や人の顔などのものを認識す

るのとは違います。愛は目には見えませんが見なければなりません。じっとしていな

いので、その動きにおいて刻々に変化する姿をとらえなければなりません。本当のも

のと偽物とがきわめてよく似ているので見分けなければなりません。愛をよく捉える

ことはわたしたちの終生の課題です。愛を知るために、まずキリストの愛の広さ、長

さ、高さ、深さを知ることから始めることができる、しかもそれは祈り求めることに

よって与えられると教えられています。

 キリストの愛は、狭い、偏った、小さな愛ではなく広い大きな愛です。その愛は神

に敵対する罪人に、神に呪われた異邦人に、そして神の世界とは無関係に生きてきた

わたしたちに向けられました。わたしたちの愛は深く真実であればあるほど狭く偏狭

にならざるを得ません。人間の愛は平和と和解をもたらすことは構造的に不可能です。

キリストの愛に激しく襲われ、覆われなければ和解をもたらす愛にいkることはでき

ないでしょう。また、キリストの愛は長さがあります。短く刹那的な愛の興奮はだれ

でも経験するでしょう。しかし主の愛は「きのうも、きょうも、いつまでも、あなた

方と共にいる」と約束してくださる愛です。その愛を知るときに人の裏切りや欺きを

おそれることから解放されます。さらに、キリストの愛には高さがあることを捉えな

ければなりません。プラトンは人間の肉体の感覚において満たされる愛、性欲や食欲

は低い愛、精神を喜ばす愛、真・善・美に対する愛は高い愛と考えました。主イエス

は「人はその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はないと」語られて、

愛を識別する基準は利己的なものか、他者のためのものかにあることを示されました。

高い愛は人々の上にそびえ立つものにあるのではなく、人の罪を負い、痛みを共にし

低きに降りる神において見ることができるのです。最後に、キリストの愛は深さをも

つ。浅薄な表面的な愛ではなく、それらを突破して真実のものを示す愛であること、

これは福音書に出てくる主イエスと出会ったさまざまな人々との出会いの情景を考え

るとすぐにわかります。キリストの愛の深さは、わたしたちの罪の深さと複雑さに対

応して、それを撃破し死から命に生き返らせる力を発揮します。

 このようなキリストの愛は、向こう側に理想型としてあるのではなく、目を開けて

見さえすればわたしたちが日々、刻々に経験しているものに他なりません。

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