6月7日
2009年6月7日

「 この杯をわたしから取りのけてください 」

詩篇88 マルコによる福音書14:32-42


 主イエスは十字架につけられる前の夜、ゲツセマネの園で激しい苦悶の祈りをされ

ました。主の十字架が何であったかを解き明かすカギがこの祈りの中に隠されている

ようです。それにしても、この祈りは不思議な祈りです。多くの問いが湧き上がる中

で、二つのことだけを取り上げてそこで告げられている使信を聞き取りたいと思いま

す。一つは、主イエスはこの祈りによってわたしたちに何を教えようとされたのか、

という問いです。というのは、明らかにゲツセマネの祈りは弟子たちの中のペトロ、

ヤコブ、ヨハネに目を覚ましているようにと命じて、あえて、彼らにこの祈りの姿を

見せ、祈りの言葉を聞かせているのです。あの苦悶のさまを、主が恐れと悩みの故に

倒れ伏し、「この杯をとりのけて下さい」と父なる神に祈る姿を。これは不思議なこ

とです。誰にも見せられない、誰からも見られたくないはずの破れた姿を見せること

によって主は何を教えようとしておられるでしょう。主イエスは、この祈りをわたし

たちの中で、わたしたちと共に祈られ、わたしたちにもこのように祈るように模範を

示しておられるのです。アンブロシウスは、ここから、キリストの受肉は見せかけの

受肉ではなく、まさに現実そのものの受肉であること、そして、主は恐れと悲しみと

苦しみを乗り越えるために、それらを閉めだすのではなく、向かい合い、身に負うこ

とによって耐え忍ばねばならなかった、と学んでいます。肉においてこの世に生きる

者として、わたしたちもこのように叫ばずには時が過ぎゆかない事態を経験します。

主もまたわたしたちの前で、父に向って叫び、この時を過ぎ行かせ給えと祈り、そし

て、その祈りの中で、父のみ心を問い、「しかし、わたしの思いではなくみ心が行わ

れますように」と委ねるところに向っています。祈りにはこのような人格的な対話、

激しい力動があります。

 第二の問いは、主イエスが「この杯をすぎ去らせて下さい」と祈った「杯」とは何

か、です。死への恐れ、生への執着といった類のものではないのは明らかです。多く

の人のために命を与える愛に迷いはなく、覚悟し、躊躇はなかったでしょう。にもか

かわらず、あれほどに主を恐れさせた「杯」とは何か、それは罪に対する神の怒りと

さばきを受けること、神から見放され最も遠いところに捨てられること、「神の怒り

の杯」への恐れです。その恐れの深さは主イエスだけにわかるものです。


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