6月14日
2009年6月14日

「 知らずに拝んでいる神 」

エゼキエル書18:25-32 使徒言行録17:16-34


 哲学の都アテネに一人で滞在している時、パウロは心が熱く燃えました。人の親切

や心の優しさに感動して燃えたのではありません。何か深い違和感、心が冷たくなる

ような経験、これほど町中に神々の像があふれ、壮大な神殿が建てられているのに、

その街の人々からは神を敬う者の深みややわらぎや喜びや希望が一向に見えてこない、

というわけで、「この町の至るところに偶像があるのを見て、憤慨した」のです。

『憤慨』という形で聖霊の促しを受けて、そこに、福音を語らなければならない、語

るべき場所があると、熱く燃えたのです。パウロの熱く燃える心は、広場で対話の相

手を求めるところからはじまって、ついにアレオパゴスの議場まで語るべき場を広げ

て行くことになりました。

 アテネの人々がパウロに対して抱いた印象、評価はさんざんです。「このおしゃべ

りは、何を言いたいのだろうか。」「外国の神々を宣伝したいらしい。」「ある者は

あざ笑い、ある者は、それについてはいずれまた聞くことにしようと言った。」ほと

んどの者がそのような聞き方で、真面目に福音に向き合っていません。しかし、宣教

のこのはじめから、アテネにもキリストの群れができて行くのです。主の福音の宣教

は、人の反応に従ってするものではないことを教えられます。

 パウロがアレオパゴスで行った演説は、福音をどのように語るかについて考えるた

めのよいテキストです。アテネの街で見かけた「知られざる神に」と書かれた祭壇の

ことから説き起こして、相手の思考回路に即して語るのです。自分が考えた神の像を

造り、自分の望む方法で神を拝む、そのような神礼拝は愚かで無益であること、真の

神は「世界とその中の万物を造られた神であり、すべての人に命と息とすべてのもの

を与えてくださる方であること。神はわたしたちから遠く離れた方ではなく、わたし

たちが神の中にあって生き、動き、存在すること」を伝えるのです。しかし、パウロ

の宣教はここで終わりません。主イエスの復活と神の裁きが語られます。神を思考す

るだけでなく、人格的に生きて働く神と出会うべきことへと説き進みます。ここに、

つまずきがおこり、また、回心が起こります。


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