ヨブ記16:9-22 マルコによる福音書14:43-52
主イエスが十字架につけられる前夜、ゲツセマネのあの激しい祈りの後、「時が来 た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ行こう。」という言葉と共に 立ち上がります。夜の闇が支配する時に向かって。その時に最も深くかかわったのが 12弟子の一人、イスカリオテのユダです。祭司長、律法学者、長老たちの手下を従 えてやってきたユダは、接吻の合図とともに主に近づき、捕えさせます。十字架への 道はここで決定的な扉が開かれます。このユダの行為をどのように考えるべきか、そ れはわたしたちの内面の闇を探り、わたしたちを主に近づけます。 ユダは主がどこにおられるか、何をしているかを知っています。知っているだけで なく、主イエスに親しく近づき、「ラビ!」と呼びかけることができ、そして接吻す ることさえできるのです。主イエスも、ユダを敵に向かうようにではなく、近付いて くる弟子のユダを笑顔をもって迎えて当然の交わりの関係です。ユダは主が自分を迎 えてくださることを信じて疑いません。自分の裏切りを知って主イエスのほうが先手 を打ってユダを懲らしめるようなことはしない人だと知っています。そのような主イ エスに対する信頼と確信があるのです。その信頼と確信を武器にして、彼は大胆に、 恐れなく、一直線に、主に向かって進んでゆきます。「しっかりととらえて連れて行 きなさい」と合図を決めて。ユダの裏切り、その内面と外面のアンバランスの大きさ は想像を絶します。まさにサタンの業です。 主イエスの十字架への道は、このようなユダの裏切りを介在させなければならない こと、また、より消極的ではあるがペトロなどの眠り込みと土壇場での逃亡も含めて、 このような身近な人々の不実と罪なしには起らなかったことは、意義深いこととです。 偽善性、不誠実、裏切り、誰もこのような心に潜む自分の姿を見たくありませんが、 また誰もその影を負って生きています。主イエスは「聖書に書かれている通り、罪人 らの手に渡される」とき、その罪人は遠いところにいる人ではなく、我らの近くに、 我らのただなかにいる人であったことが明らかにされるのです。すべての人の罪のた めの死はこの個別の罪において起こっています
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