6月28日
2009年6月28日

「 大祭司の審判 」

イザヤ書50:4-11 マルコによる福音書14:53-65


 「十字架の言葉は滅んでゆく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる

者にとっては神の力です」と語られます。「愚かさ」と「神の力」が相接しているも

っとも緊迫した場面が主イエスが捕えられ、ユダヤの最高法院で大祭司カヤパの審問

をうけて死刑が宣告される場面です。主が捕えられたことが伝わるとすぐ、祭司長、

律法学者、長老たち70人からなる最高法院が招集され、「死刑にするためイエスに不

利な証言を求めた」審問が始まります。真夜中の非公式な闇の裁判。はじめから結論

が決まっている審問。このような裁判が正義と公正に根差すものではないことは明ら

かですが、しかし、その死はユダヤの人民を代表する公式の機関による一定の審議過

程を経て起こった出来事です。主イエスが「罪人らの手に渡される」、その罪人には

すべての民が含まれ、その一端の責任を負っていることになります。

 興味深いことに、この裁判において、人々の証言は互いに食い違って、所期の目的

を果たすことができません。信仰の告白はギリシャ語で”ホモロゲオー“同じことを

語るという意味ですが、ここでは主イエスの働きを告発しようとするとホモロゲオー

にならないというのです。人が神を裁こうとしているからです。教会に集う者の声が

一つにならないで互いに食い違うとき、その淵源がどこにあるかを示唆しているかの

ようです。

 しかし、彼らの声が一致する時が来ました。大祭司の問い、「お前はほむべき方の

子メシアなのか。」主イエスの答え、「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の

右に座り、天の雲に包まれて来るのを見る。」この対話が神を冒涜し人民を惑わす言

葉として、ローマ総督に告発する確実な証拠とされたのです。かみ合わない対話、一

方は社会を乱すメシアを見いだそうとし、他方は終末のメシアを語る。しかし、ここ

で主イエスが「わたしがそれだ」と語ることによって、主イエスはメシアとして、王、

祭司、預言者として油を注がれた者として、確かに十字架につけられることが決まっ

た瞬間です。誰か犯罪者の狂気の手にかかって、というのでも、神から遠い冷血漢に

よるのでもなく・・・。これは主イエスご自身が語り出すことによって起こっている

ことです。


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