出エジプト記40章34−38
人生の荒れ野を旅するわたしたちにとって、教会とはなにか。わたしたちの生活 の中でどのような位置を占めているのか、4000年も前に建てられた「会見の幕 屋」のことを学ぶとき、あるはっきりとした光を感じることができます。 会見の幕屋は誰のために、誰の必要を満たすために造られたものなのでしょう。 多くの地上の宗教施設が支配者の政治の道具であったり、民衆の慰安の場であった りするのとは違って、この幕屋は、荒れ野の旅をするイスラエルのために、シナイ 山において「わたしはエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」と自らを 顕わされる神が、「ここにわたしの名を置き、わたしは彼らの中に住む」ために造 れと命じられたものです。神の命令により神の存在を現すために造られるものです。 まさに主イエス・キリストによって招かれた教会のようにです。 会見の幕屋を造る仕事は共同体全体によってです。共同体がこれに関わる関わり 方は印象的です。次々に献納物を持ってきて有り余るほどだったと記されています。 「心を動かされ、進んで心からするものは皆」そのようにした(出エジプト35.5)と。 荒れ野の乞食のような共同体がこんなものを持っているのは不自然と感じるような 金や銀、宝石が奉納物として捧げられたのです。日々のパンにも困る生活のただ中 にいたからこそ、その生活の中で本当に必要なのは目に見えるパンよりも、日々の パンを持って養って下さる主との真の関わり、礼拝が必要であることに心動かされ ているのです。また、「心動かされ、知恵に満ちた女たちは皆、山羊の毛を紡いだ」 お記され、幕屋の外装や祭具をつくるために専門的な働きをするためにベザエルや オホリアブが建築工芸の指導にあたっていますが、彼らについて、「彼に神の霊を 満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、・・・更に人を教える力 をお与えになった」(35.31-34)と記されています。主が必要な資材も、必要な人材 も、必要な霊も知識も備えて下さっています。 こうして造られた会見の幕屋は、「レビの宿営に囲まれて全宿営の中央を行進す る。」(民数記2.17)と記されます。今日は水を飲んでも明日はどうなるかわからな いという荒れ野の旅をする共同体の中心に幕屋があって、約束の地に向かって確か な旅が続けられているのです。主の栄光が満ち、雲が幕屋を離れて立ち上がると旅 にたち、とどまるととどまり、昼は雲の柱、夜は火の柱が旅を導いたというのは、 この会見の幕屋を中心にする光景であったのです。