イザヤ書30:15-17 マルコによる福音書14:63-72
ユダヤの最高法院で主イエスに死刑の宣告が下されたとき、ペトロの否認の出来事 は主イエスの十字架と共に忘れることのできないこととして語られます。ペトロは主 を心から信頼し従ってきた人、強い人、であったはずです。そのペトロのこの土壇場 での崩れをどう考えるべきか。 「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭にまで入って、下役たち と一緒に座って火に当たっていた。」ここから3度の否認が始まります。このペトロと 主イエスの距離、「遠く離れて」に注目しましょう。いったんは逃げ出したものの、 他の弟子と違ってペトロだけはイエスが裁判を受けている様子が見えるほどの近さで その一部始終を見ています。彼とて証人の一人として主イエスの無罪を主張できる場 所にいましたが、それはできません。主イエスとの距離は遠いのです。その時、大祭 司に仕える女中の一人が「この人はあの人たちの仲間です」と言い始めたことによっ て、主イエスが予告した通りに、「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないという」 ことになってしまいました。距離は決定的に遠くなったのです。おせっかいな女中さ えいなかったら、と人のせいにするわけにはいきません。彼自身の恐れが、自己保身 が、彼をそのような立場に追い込んでいることは確かです。そのような心の弱さが誰 にもあります。 しかし、ペトロが遠く離れたところで主を知らないと言ったからとて、それで裁判 の結果がどうなったものでもありません。関係ないところで主はご自分の道を進んで おられます。しかし、ペトロにとっては、主の十字架と自分の否認は無関係ではいら れなかったでしょう。復活の主に出会うごとに、主の死は遠くのことではなく近くの こと、自分の罪のための死、その死に責任を感じたはずです。ここから大切なことを 学ぶことができます。主イエスの歴史的な出来事としての死が、自分の罪のための死 として信仰をもってその死に結びつき、また復活にあずかることになる絆がここに生 まれているからです。わたしたちの罪があの遠くの十字架と復活の出来事とわたした ちをつなぐのです。ペトロは自らの弱さ、涙において、主の死と復活の証人として立 っています。
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