イザヤ書53:1-10 マルコによる福音書15:1-15
主イエスに対して、大祭司とユダヤの最高法院による裁きの後、ローマ総督ポンテ オ・ピラトによる最終判決が下されます。「イエスを鞭打ってから十字架につけるた めに引き渡された」と。捕えられてから数時間のうちに死刑が決定されるという乱暴 極まりないプロセスを経て、十字架刑が確定します。誰が、何の理由で、誰を裁いた のか、その内実を見れば見るほど、裁いたものが裁かれる裁判であったことは確かで す。「罪人を救うための死」の実態です。 ピラトと主イエスの対話はただ一言、「お前がユダヤの王であるか」とピラトの問 いに対して、主イエスが、「あなたがそう言う」と言っただけで、後は沈黙です。祭 りの間に一人の囚人を恩赦する習慣に従ってピラトは群衆に、「ユダヤ人の王を釈放 してもらいたいか」と問いかけ、何とかイエスを解放したいと努力しますが、群衆の 「バラバを釈放してくれ、イエスを十字架に」、という声に負けて、ついに最終判決 に至ったというわけです。ローマ総督ポンテオ・ピラトについては新約聖書以外の文 献でも知ることができますが、当時のユダヤの最高権力者として君臨したその治世は 過酷なもので、それらの著作者たちは口を極めてその性格の悪さ、政治の愚かさをあ げつらっています。それから見ると聖書の記述は例外的にピラトに優しく、主イエス を前にして人間的な心の動きをしたことを知ることができます。はじめは恐らく侮蔑 的な、優越的な態度で接していたでしょうが、主イエスの沈黙に触れて戸惑い、一人 の人間として向かい合い、やがて、「祭司長たちがイエスを引き渡したのはねたみの ためだとわかっていた」と記されているように、イエスの無罪を確信して、何とかこ れを釈放する方法をと、明らかな犯罪者「バラバ」を引き合いに出しているのです。 真実と正義の感覚を持ち、それを守るべき自分の務めも自覚しています。しかし、祭 司長たちに扇動された群衆の「十字架につけよ、十字架につけよ」という声に押され て、良心に背く卑劣な判決を下したのです。群衆の無責任とピラトの無責任の合作が 主イエスの十字架刑であったのです。しかし、その判決の虚構性の闇が主イエスの十 字架の実体性を覆います。まぎれもない事実として主イエス・キリストの十字架は歴 史の中に立っています。ピラトや群衆や、ユダヤペトロや、すべての人の罪を一身に 負う者として・・・。
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