7月19日
2009年7月19日

「 茨の冠をかぶせられた王 」

詩篇69:8-22 マルコによる福音書15:16-32


 主イエスの十字架への歩みがいよいよ最終場面に至ります。ポンテオ・ピラトのも

とで最終判決、十字架刑が下されると、ローマ兵たちの嘲りに満ちた暴行。茨の冠を

かぶせ、王の衣を着せ、足の棒で頭を叩いて「ユダヤ人の王万歳!」と叫ぶ、全く刑の

執行とは関係のない暴走行為です。長く虐げられた人々の積み重ねられた怒りが暴走

する時のような愚行が主イエスに向かって暴発しています。

 その後ゴルゴタの丘へ。キレネ人シモンが主の十字架を代わって背負うというハプ

ニングがありますが、他の二人の犯罪人と共に十字架につけられます。想像を絶する

痛みとともに手足が釘づけられ、長時間全身の重みがその傷口にかかり、やがて絶命

する、もっとも残酷な刑の執行に身をゆだねることになります。不思議なことに、マ

ルコによる福音書では、十字架をめぐるさまざまな情景、下役たちが衣を分け合った

ことや、没薬を混ぜたブドウ酒を差し出したことや、その他のディテールは書き込ん

でいるのに、主イエスご自身がどのような言葉を発し、痛みをどのように受けている

かについてはほとんど何も伝えていません。一貫して黙々とその時のすべてをその痛

みにおいて引き受けているかのようです。

 この場の主役が沈黙している時、わき役たちが活躍します。そばを通る人たちの主

イエスに向かって叫ぶ声、祭司長、律法学者の勝ち誇った声がうずまきます。「他人

は救ったが、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるが

よい。」これはわたしたちが教会で聞く主イエスの十字架の言葉とは全く違います。

しかし、彼らの言葉の中にはリアリティーと説得性があります。自分自身を救いえな

いものに人を救うことはできない。十字架から降りて来る者こそメシアのしるし、こ

れが十字架を取り巻くものが信じるメシア像なのです。そして、私たちもこのような

信仰に陥り、期待する神には見放され続けています。神が備えたメシアと人間が期待

するメシア像の相克がここほど鮮明に表れているところはありません。主イエス・キ

リストはこの無力なさま、深い沈黙において、投げかけられている嘲りと冒とくのす

べての言葉を胸に深く刻んで、十字架についています。「十字架の言葉は、救いにあ

ずかるわたしたちには神の力」、との確信と救いに至るために、この人を、見よ。


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