7月26日
2009年7月26日

「 まことの神の子 」

詩篇22 マルコによる福音書15:33-41


 ゴルゴタの丘、十字架上の主イエスの最後の場面。昼の12時から3時まで、地上

には闇が覆います。それまで一言も言葉を発することがなかった主イエスが大声をあ

げて祈ります。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(『わが神、わが神、何故わ

たしをお見捨てになるのですか』)。これはマルコによる福音書が伝える十字架上の

ただ一つの主の言葉です。この祈りにおいて、主イエスの十字架の意義が語り出され

ているとわたしたちに伝えているのです。

 それにしても不思議な祈りです。この嘆き、訴えを通して、主イエスは十字架にお

いて何を苦しみ痛んでいるか。それは、手足を釘づけてはりつけているわたしたちの

想像を絶する傷の痛みではありません。「他人は救ったが自分を救うことができない。

今すぐ十字架から降りてみろ。そうしたら信じよう」と嘲り罵る人々のとげのある言

葉でもありません。間もなく訪れる死への恐怖でもありません。何よりも、主を苦し

めている最も深い苦しみと痛みは、神から見捨てられること、見放されることです。

ここに主の苦しみの本質が示されています。神を信じる共同体にとって、「恐れるな。

わたしはあなたと共にいる。私はあなたを見放すことも、見捨てることもない」とい

う慰めと励ましはまさに究極の神からの慰めであって、この慰めによって、アブラハ

ムの、モーセの、ヨシュアの、ダビデの歩み、イスラエルの信仰の歴史が刻まれてき

ました。今ここに、主イエス、神と一体であり、もっとも神と親しく交わる神の子、

主イエスが、神から最も遠く、見放され見捨てられる位置にあって、「わが神、わが

神、何故に・・・」と祈っているのです。この祈りはまねごとの祈り、偽りの祈りで

はありません。十字架上の祈りであり、その痛みと辱めのさ中での祈りです。しかし

また、この祈りには、この中に包みこまれるわたしたちの世界の祈りがあることに気

づかされます。親から見捨てられた子供、家族から見放された老人、医者から見放さ

れた病人、企業から見捨てられた労働者、その嘆きと祈り、・・・そして、その大群

の神と社会に対する呪いと反撃についても。主イエスは、その十字架上の祈りにおい

て、その死において、見捨てられる者の最も深い祈りを引きうけておられます。この

祈りから、闇は光に、神殿の幕は裂けて落ち、ローマの百人隊長の口から「この人こ

そまことに神の子」、という告白が生まれています。

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