8月9日
2009年8月9日

「 八日目の朝 」

イザヤ書26:16-19 マルコによる福音書16:1-6


 主イエスが十字架の死を遂げてから三日目、神が創造された世界は新しい一日、8

日目の朝を迎えます。ガリラヤから一緒にやってきた女性たちが行動を開始していま

す。「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエスに

油を塗りに行くために香料を買った。そして、週のはじめの日の朝ごく早く、日が出

るとすぐに墓にいった。」彼女たちは主イエスの遺体を異郷の地エルサレムに残した

ままでガリラヤに帰ることはできなかったのでしょう。大胆にもアリマタヤのヨセフ

に断りもなしに、墓を開けて油を塗ろうとして朝早く出かけます。彼女たちは、他の

男の弟子たちと違って、大きな悲しみから立ちあがって行動を起こしています。そこ

には強い決意を感じます。彼女たちを立ち上がらせている力、明日への希望とはどの

ような希望なのでしょう。それは、主イエスの死を向こう側の死としない決意、わた

したちの主の死とする決意、そこから生きる決意であるに違いありません。確かに、

人間の死は親しく近い死であればあるほど、そこから新しくそれまでとは違った生き

方へと促す大きな力となります。それは報復の決意であったり、償いの決意であった

りしますが、いずれにせよ、死から新しく生きる生き方が彼女たちの中で始まってい

ます。しかし、彼女たちが用意した油は花婿を迎えるための油ではなく、葬りのため

の油であったことは確かです。

 「ところが、目をあげてよく見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常

に大きいものであった。そして墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っ

ているのを見て、腰を抜かすほど驚いた。」彼女たちは主イエスの復活の事実を知ら

され、そのことをペトロや他の弟子たちに告げるようにとの知らせを聞きますが、驚

いたことに彼女たちは墓から逃げ帰って、誰にも何も言わなかった、というのです。

そして、マルコによる福音書はここで終わっているのです。主イエスの言葉も喜んだ

弟子たちの声も何もありません。この驚きと沈黙によって、主イエスの復活が人間の

日常の中でどれほど異常なことであったか、どれほど自分たちの決意とかけ離れたも

のであったかがよくわかります。復活の事実はその最初の証言者すら信じ難いことで

あったか、そのリアリティーを伝えています。

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