ルツ記2:1‐13 コリントの信徒への手紙二9:6-1
希望の朝が始まります。「主なる神がわたしにひどいことをした」と嘆くナオミ。空 っぽになってモアブから帰ってきたナオミとルツの二人の女性がベツレヘムで始めた 生活は、「落ち穂拾い」という最も貧しいものでした。しかし、ナオミの嫁、モアブ の女性ルツは元気です。朝早く起きだして「畑に行ってみます。誰か好意を示してく ださる後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と、そんな生活にも屈託がありません。 ルツの向かった畑は、偶然にも親戚のボアズの畑。そしてボアズも麦刈りの場にやっ てきてルツに目を留めます。偶然の出会いから善意と親切の交流へと発展するにいた る過程は、まことに自然で、主なる神の御手が延ばされている形を見ることはできま せん。しかし、この偶然の重なり、人間の心と心の自然の動きの中に、その背後に見 えざる神の御手、摂理性を感じ取ることができます。自然の生活の流れの中に、こと は奇跡的に進行しているのです。 二人の対話。「異国の女であるわたしにこれほど目をかけて下さるのはなぜですか」 と問うルツ。「夫が亡くなった後も姑に尽くしたこと、父や母を離れ、生まれ育った 土地を離れて、見も知らぬ民のところに来たことについて、何もかも伝え聞いて知っ ていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いて下さるように。イスラエルの 神、主がそのみ翼の下に逃れてきたあなたに十分に報いて下さるように」とボアズ。 この自然の会話の中にルツ記の深い神学が潜んでいます。ボアズの言葉には異国の女、 異教の民、貧しい者に対するあってしかるべき、とげ、蔑視、隔てはありません。そ の壁は見事に取り払われています。それは、ボアズが自分の宗教や文化を捨てること によって乗り越えられたことであるのか。そうではありません。ボアズの主なる神の 心に感応する心が、主なる神への信頼が、異国の女性ルツのふるまいの中に共鳴する ものを見いだして、ボアズもまた、その主なる神の心をあらわす働きの一端を担うこ とへと促されています。彼の暖かさと親切な行為の源泉はそこにあります。民族性や 文化に張り付いた宗教を乗り越える、もっと深い神の愛についての認識、敵意と言う 隔ての中垣を取り除く神の愛にふれているのです。
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