10月25日
2009年10月25日

「 主は生きておられる 」

ルツ記3:11‐18 使徒言行録10:34-48


 古いイスラエルの習慣に基づいたルツ記の結婚物語を通して、わたしたちは「贖い」

(ゴーエール)と言う主イエス・キリストによる神の愛と救いを最も深く表現する言葉

の原像を学ぶことができます。土地や奴隷状態になっている家族、親族のための買い

戻しを意味しますが、この責任は、夫を失った兄嫁を弟がめとって子孫を残すことも

ゴーエールに属します。

 真夜中にボアズの足もとに寝ているルツ。裸で親族の責任を果たせと結婚を迫るル

ツ、一歩間違えば軽蔑と怒りによって人生全体を破滅させてしまいかねない緊迫した

場面。驚くべきことにボアズはルツの思いをすべて受け入れます。「わたしは確かに

家を絶やさぬ責任のあるものです」と。ここにはボアズの大きな決断があります。贖

い(ゴーエール)の責任を果たす決断をしているのです。人は他者のために生きよう

と決断し、自分の人生をそれに賭けることに向かって大きく踏み出すときがあります。

そのようなときがなければなりません。その場合、このボアズのように自分を犠牲に

して他者の苦境を救い解放することの責任を担ったのはどうしてか、この問いは今日

に生きるわたしたちの問いでもあるはずです。

 ここでボアズの決断を促している力は、ルツの生き方と行為そのものです。ボアズ

は、ルツの生きざまの中に「贖い」(ゴーエール)に通じる歩みを見ているのです。姑の

ナオミと一緒にモアブの地から帰ってきたこと、一日中汗を流して落ち穂拾いをした

こと、ひたむきなその歩みの中に、まさに親族のために自分の身をなげうって尽くす

ゴーエールの働き、そこには「真実・真心・慈愛」(ヘセド)があるのを見ています。

しかも、ただルツの中に真実を見ているだけでなく、そこに神のヘセドの現れがあり、

その愛に促されて、彼自身も、真実に応えてゴーエールの働きを担う決意をしている

のです。朝早く、6杯の大麦と共にナオミのもとにルツを送り返すボアズ。「ナオミ

のもとに手ぶらで帰すわけにはい行かない」と言う配慮。「手ぶら」からっぽ、はナ

オミの心をらわす言葉。今や主なる神はナオミの空虚な心に何かを確かに満たしてい

ます。「主は生きている」のです。

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