ルツ記4:1‐8 コリントの信徒への手紙二 6:1-10
ルツ記の物語を通して、古いイスラエルの独特の結婚の習慣についてだけでなく、 「贖い」がどのように行われていたのかの原風景を知ることができます。贖いは、主 イエス・キリストによってわたしたちの罪が赦され、救われた、キリスト教の信仰の 中心を表現する言葉ですから、わたしたちにも深く関係します。贖い(へブル語で “ゴーエール”)こそ、ルツがボアズに求めたことでした。すなわち、親族の苦境を 救出するために責任を果たす行為、この場合は、子孫を残せなくなった家のために、 遺された嫁と結婚して子孫を残すという驚くべき責任です。ボアズはその責任を引き 受ける決心をして、朝早く町の門のところに行き、そこを通りかかったもっと身近な ゴーエールの責任を果たすべき人を呼びとめ、また長老たち10人と町の人たちを呼び とめて「街頭裁判」へと持ち込みます。そしてボアズの計画通り相手は自分の靴を脱い でボアズに渡し、結局ボアズがルツとそのすべての財産を引き継ぐ責任を負うことに 決したということになります。靴を脱いで渡すというのが権利の譲渡のしるしだった のです。 こんな物語は主イエスによる罪の贖いと何の関係もないように見えますが、「贖い」 が成立するための基本のことがここに記されています。つまり、「贖いの公共性」と いうことです。親しい者を救出するためにひと肌脱ぐことはどこにでもあることです が、贖いはただ私的なひそやかな行為ではなく、公共的なこと、共同体全体が認知し、 共有する出来事であることが教えられるのです。ボアズが町の門のところで、公共の 裁判という形でことの決着をつけたことと、主イエスの裁きがポンテオ・ピラトのも とで行われ、すべての人の見えるところに十字架が立てられたことと関連しています。 またわたしたちの洗礼が公同の礼拝のただ中で行われることともつながっています。 それは、最も私的なことでありつつ、公共のことでもあるからです。それにしても、 ボアズの贖い“ゴーエール”を実行するための周到な配慮は見るべきものがあります。 まず土地の話からはじめて、それからルツとの結婚の話を持ちだすのです。わたした ちの贖いを現実のものにするための主の配慮はどれほどのものだったでしょう。
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