ルツ記4:9‐13 コリントの信徒への手紙一6:12-20
ルツ記の物語は大団円に向かって進みます。町の門の所での民衆と長老の裁きの座 でボアズは贖い(ゴーエール)の第一責任者との話し合いに決着をつけ、ついにその 人は履物を脱いでボアズに渡し、ルツに約束した通りにボアズはルツをめとり、ナオ ミの土地の責任も担うことになりました。ここに贖い(ゴーエール)が成就したので す。 わたしたちはルツ記を読むとき、これを主イエスの神の国のたとえのように、神の 贖いの恵みを知るための「たとえ話」として読むという視点から見てきました。ここ で、ボアズが町の門のところで行われる裁判の席でゴーエールの第一責任者と交わし た対話の中にも贖いの恵みを味わうところを見出します。この人はナオミの土地を手 に入れる話には乗ってきて、自分がその責任を果たすと言いますが、モアブの女性ル ツもめとらなければならないとなるとしり込みしました。「それではわたしの嗣業を 損なうことになる」というわけです。そこでボアズがその責任を負うことになったわ けです。ということは、ボアズがその危険を背負ったことを意味します。贖いの責任 を負うことは自分の立場、嗣業、家族を危険にさらすことです。自分を捨てることな しに、他者の救いを成就することはできないのです。たとえ親族と言えどもその覚悟 は真実の愛(ヘセド)なしにはできません。まさにボアズはルツに対してこの真実の 愛を持ってゴーエールとなる責任を負ったのです。主イエスの贖いが、「その友のた めに命を捨てること」において成就したことは、ボアズの贖いの行為においてその予 型をあらわしています。 さらに、このボアズのゴーエールの行為によってもたらされた結果の「全体性」の ことも“贖い”が意味することをよく映し出しています。ルツとナオミがこれによっ て救われたことは、ただ幸せな結婚をし、孤独が癒されたことにとどまりません。空 っぽになってベツレヘムに帰って来たナオミ、そしてルツの過去、現在、そして将来 がこの贖いの業によって回復され、まったく新しくされ、慰めと希望が与えられるこ とになったからです。主にあるわたしたちの贖いもまた、そのような全体的な回復の 業です。
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