11月8日
2009年11月8日

「 贖いの成就 」

ルツ記4:9‐13 コリントの信徒への手紙一6:12-20


 ルツ記の物語は大団円に向かって進みます。町の門の所での民衆と長老の裁きの座

でボアズは贖い(ゴーエール)の第一責任者との話し合いに決着をつけ、ついにその

人は履物を脱いでボアズに渡し、ルツに約束した通りにボアズはルツをめとり、ナオ

ミの土地の責任も担うことになりました。ここに贖い(ゴーエール)が成就したので

す。

 わたしたちはルツ記を読むとき、これを主イエスの神の国のたとえのように、神の

贖いの恵みを知るための「たとえ話」として読むという視点から見てきました。ここ

で、ボアズが町の門のところで行われる裁判の席でゴーエールの第一責任者と交わし

た対話の中にも贖いの恵みを味わうところを見出します。この人はナオミの土地を手

に入れる話には乗ってきて、自分がその責任を果たすと言いますが、モアブの女性ル

ツもめとらなければならないとなるとしり込みしました。「それではわたしの嗣業を

損なうことになる」というわけです。そこでボアズがその責任を負うことになったわ

けです。ということは、ボアズがその危険を背負ったことを意味します。贖いの責任

を負うことは自分の立場、嗣業、家族を危険にさらすことです。自分を捨てることな

しに、他者の救いを成就することはできないのです。たとえ親族と言えどもその覚悟

は真実の愛(ヘセド)なしにはできません。まさにボアズはルツに対してこの真実の

愛を持ってゴーエールとなる責任を負ったのです。主イエスの贖いが、「その友のた

めに命を捨てること」において成就したことは、ボアズの贖いの行為においてその予

型をあらわしています。

 さらに、このボアズのゴーエールの行為によってもたらされた結果の「全体性」の

ことも“贖い”が意味することをよく映し出しています。ルツとナオミがこれによっ

て救われたことは、ただ幸せな結婚をし、孤独が癒されたことにとどまりません。空

っぽになってベツレヘムに帰って来たナオミ、そしてルツの過去、現在、そして将来

がこの贖いの業によって回復され、まったく新しくされ、慰めと希望が与えられるこ

とになったからです。主にあるわたしたちの贖いもまた、そのような全体的な回復の

業です。

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