イザヤ書55:1‐11 ローマの信徒への手紙15:1 - 13
「わたしたち強い者は強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべき ではありません。キリストもご自分の満足をお求めになりませんでした。・・聖書か ら忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けるべきです」 クリスマスを迎える心備えをするのは、ただ、ベツレヘムの馬小屋のことだけを考 えるのではありません。主イエスの生涯全体を通してわたしたちに与えられたものは 何かを確認し、わたしたちの中で、今主イエス・キリストがどのように生きて働いて くださるかを思いめぐらすことでなければなりません。 パウロがローマの教会、主イエス・キリストの体であるべき現実の共同体を見る時、 そこで見ているのは強い人と弱い人のいる共同体、ユダヤ人と異邦人という伝統も習 慣も違う人々が混在して共に主を礼拝している共同体です。その中でも、律法に厳格 に従うべきだと考える人たち、そんなことは信仰と関係ないと考えて自由に生きる人 たち、要するに、生き方においても考え方においても一つになれない人たちの集団で す。その意味で、わたしたちの現代の教会と大差はありません。本音のところでは、 互いが相手を信頼せず、互いが自分の方が強く正しく、相手が弱く間違っていると考 えている、そのような共同体の実態、その深部に聖書の言葉は針を刺します。わたし たちが強いと思っているその強さは、主イエス・キリストの強さに学ぶ強さであるか、 と。ここでは、強いと思っている人の強さを打ち砕いて、本当の弱さを思い知らせる という教え方をしていません。強さを肯定しつつ、その強さが主イエスの生き方とつ ながっているかどうかを問うているのです。強い者は弱い者の弱さを担うべきで、自 分の満足を求めるべきではない、それは、主イエスがわたしたちのために歩まれた歩 み方そのものだ。「あなたをそしる者のそしりがわたしにふりかかった」と書かれてい る通り。わたしたちはそこから、忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けるように、と。 ここでの忍耐は、自分の体を打ちたたいて刻苦勉励するタイプの忍耐ではありません。 他者との交わりの中で、主イエスの思いと言葉が実現することを望み見つつ行動する 忍耐です。主の慰めに根ざす忍耐です。
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