イザヤ書11:1‐10 コリントの信徒への手紙一1:18 - 31
クリスマスの時には幼子の時の主イエスだけでなく、その生涯全体が覚えられなけ ればなりません。パウロは、その生涯を「十字架の言葉」と総括し、しかも、「十字 架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる物にと っては神の力です」と語ります。「愚かなもの」と断じていることに驚かされます。 もちろん、本当に愚かなものと言っているのではなく、「神の愚かさは人よりも賢く、 神の弱さは人よりも強い」と信じています。しかし、ここでパウロは、ただ、レトリ ックとして十字架の言葉の愚かさについて語っているのではありません。十字架の言 葉に触れるものは、そこに含まれるつまずき、神の愚かさを感じることなしには、神 の力、神の知恵を深く捉えることができず、また、新しく生まれるほどの救いにあず かることはないことを明らかにしているのです。愚かなものは、賢くないもの、無価 値なもの、無力なもの、信じるに値しないもの、嘲られるべきもの、であるはずです。 自分が命がけで信じ、そして体を張って伝えている福音が、「愚かなもの」、「つま ずき」というレッテルを貼ることは尋常ではありません。にもかかわらず、あえて、 「十字架の言葉の愚かさ」が語られなければならない、この主張は、現代のわたした ちへの挑戦でもあります。 ここで、パウロが「愚かさ」として語っている内容には3つのものがあります。「十 字架の言葉の愚かさ」、「宣教の愚かさ」、「神の愚かさ」です。互いに関連してい ますが、それぞれ違った側面をあらわします。主イエス・キリストの誕生からガリラ ヤでの働き、そして、十字架の死に至る歩み全体について語られる言葉が十字架の言 葉の愚かさですが、それを語り伝える者、また聞いて受け入れる者の愚かさ、そして、 そのようにして救いの計画を遂行される神ご自身の愚かさも、明らかに認識されてい ます。この神の愚かさは、神がわたしたちに近づき、知恵のない愚かな者を御自身の ものとして召してくださるためにほかなりません。神の愚かさはわたしたちの現実に 目ざめさせます。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力あ る者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました」と語られるとおりです。
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