12月27日
2009年12月27日

「 自分の体を聖なるいけにえとして 」

サムエル記上1:20‐28 ローマの信徒への手紙12:1 - 8


『こういうわけで、兄弟姉妹、神の憐れみによって勧めます。自分の体を神に喜ばれ

る、生きた、聖なる供え物としてささげなさい』

 このみ言葉は、キリスト者の生活の生き方を示す最も基本的なことを伝えています。

唐突に、「こういうわけで」という言葉から始まっていることに目を覚まされます。

ローマの信徒への手紙で伝えられてきた全部を受けて、「こういうわけで」と言ってい

るのは確かですが、これを読むわたしたちひとりひとりは、それぞれの生活を経て、

礼拝に集っています。クリスマスの喜びや感謝、そして様々な人間関係への思い、思

いがけない感謝、悲しみや涙にくれたこと、さまざまな出来事の中で、わたしたちの

時の流れがあります。そのようなわたしたちのこれまでの時から、どのような時に向

かって生きるのか。そのようなわたしたちに対して、「こういうわけで」と、過去の

時を清算し、次の時に向かって生きるように励まし、促しているのです。これまでの

時は、「実に、キリストはわたしたちがまだ弱かったころ不信心な者のために死んで

くださった。・・・わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのため

に死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました・・・。」

という言葉にすべてを包みます。さて、そこからどのように生きるか。その答えは明

白です。「自分の体を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げること」です。こ

こには、礼拝の勧めが語られていますが、これまでの礼拝の在り方とは全く違う礼拝、

すなわち、わたしたちのうちにきざす神への思い、畏敬や恐怖や、とりあえずの願掛

けなど、わたしたちの低次や高次の宗教性に根差す礼拝ではなく、イエス・キリスト

によって示された神の愛に触発された新しい礼拝です。それは、わたしたちの生きる

営みのすべてを包む体全体の礼拝です。四六時中の礼拝、生涯全体の礼拝です。主イ

エス・キリストご自身が人間のかたちをとり、体全体で罪人であるわたしたちのため

に命を与えて下さったのですから、わたしたちの礼拝も、体全体のものであるべきこ

と、これは「当然の理」です。

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