19980913
1998年9月13日

「聖霊にいい逆らう罪」

マタイによる福音書12章22−32


 「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。

人の子に言い逆らうものは赦される。しかし聖霊に言い逆らうものは、この世でも後

の世でも赦されることはない。」

主イエスは聖霊の働きについて、このようにはっきりしたことばで、その特別な権威

を明らかにし、人の子である主イエスご自身と区別していることに驚きを感じます。

主イエスは見ることができますが、聖霊の働きはわたしたちの目には見えません。聖

霊に対する冒涜はどのようにして起こるのでしょうか。

 ここで起こっている状況を考えると、目も見えず口も利けない悪霊にとりつかれた

人がイエスのところに連れられてきて、イエスがこの人を癒しておられます。ここに

は人間の手には負えない不自由があり、悲しみと不幸があります。それに対してその

悲しみと不自由を深く感じたイエスがあり、そこから癒しが起こります。それがどの

ようなメカニズムで起こったのかはわかりません。しかし、その場に立ち会った人々

は未知の出来事、力ある働きに畏れを抱いたのは確かでしょう。さてそこからが問題

です。驚きから出てくる反応が二つに分かれるのです。群衆は「この人はダビデの子

ではないだろうか」というのにたいし、ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブル

の力によらなければ悪霊を追い出せはしない」と考えたのです。同じ出来事が一方で

は神のみ業に対する感謝と賛美、新しい時の到来への期待を呼び起こし、他方では中

傷、嘲り、警戒によって心を閉ざす方に向かっています。両者の心の動きはほんのち

ょっとした小さなきっかけによって右にも左にも動く、ささいな違いでしょう。しか

し、それは天と地を隔てるほどに大きな違いを生み出すでしょう。わたしたちは生活

の中でこのような節目をしばしば経験します。

 聖霊はまさに、このような場所で働くことを主イエスはわたしたちに教えておられ

ます。主イエスの働きを通して、そこにある本質をありのままにうけとり、わたした

ちの心に神の大いなる恵みの光を聖なるものにふれた畏れと感動に導くのは、まさに

聖霊です。そのような聖霊にふれた人には新しいときはもう既に始まっています。し

かし、心を閉ざして自らの誇りに生きるものにはこの世でも赦しはありません。永遠

のものからは退けられているからです。聖霊はこのように主イエスをわたしたちにも

たらし、新しい時を造り出す神です。したがって、聖霊はさばく神でもあります。
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