マルコによる福音書10章32−52
ヤコブとヨハネがイエスに対して、「栄光をお受けになるとき、一人を右に一人 を左に座るようにして下さい」とお願いした情景。なんと弟子たちはイエスに対し て無理解であり、また功名心にとらわれていたかということが強く印象に残ります。 しかし、この二人は、また、それに怒った弟子たちはそれほど愚かだったのでしょ うか。 この二人の弟子の訴えは、主イエスが「やがてエルサレムで祭司長たちや律法学 者たちに引き渡され、死刑を言い渡され、異邦人に渡され、愚弄され嘲られ、殺さ れる。そして三日目によみがえる」と三度目の受難の予告の直後になされています。 これはペテロとは違っています。ペテロは受難の予告を聞いたときイエスを脇へ引 き寄せいさめ始めたので「サタンよ退け」としかられています。ペテロと同じガリ ラヤの漁師で、「わたしに従ってきなさい」と声をかけられて舟も父親も後に残し て従ったヤコブとヨハネは、イエスの苦難と死が「父の栄光を受けるとき」と理解 しているのです。十字架こそ主イエスの栄光の時という、イエスの存在の秘密を理 解することができる信仰的洞察力、わたしたちもその洞察の深みに少しでもあずか ることができればと思います。しかし、イエスの栄光の時と自分たちの栄光とを結 びつけ、イエスにあづかって自分たちも栄光と権威を持ちたいと願っています。彼 らの従順は野心を含んだ従順、報償を求める信仰です。それも並大抵でない従順で す。「わたしが飲む杯、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と問 われると、「できます」と即座に答えるのです。 主イエスは、人間の従順の本質を露呈しているようなこの二人の弟子の願いを、 ほとんど受け入れています。確かにわたしが飲む杯、わたしがうけるバプテスマに あずからせるというのですから。しかし、彼らの野心的な部分、いささかの濁りを 含んだ部分は切り離されます。「右左に座らせることはわたしにできることではな い。父が定めておられることである」と語られます。そじてご自身の父への信頼と 従順がどのようなものであるかを明らか示されます。「あなたがたの間で偉くなり たいものは、皆に仕えるものになり、一番上になりたい者は、すべての人の僕にな りなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代 金として自分の命を献げるためにきたのである」と。栄光の時のために生きるので はなく、仕えるために生きられた主の歩み、これがわたしたちの前にいつもありま す。