創世記3章1−7
人間の社会はどこにも不和と争い、憎しみとめたみが渦巻いています。殺し、盗 み、欺き、姦淫の種がそこにもここにもあってゴシップの種に欠くことはありませ ん。何故に人間はこのようであるのか、平和に生産的に生きることがどうしてでき ないのか。貧困を解決し、教育を施し、物質的にも精神的にも豊かな社会を出現さ せることによって人間の根源の悪は解消させることになったか。20世紀末の人間 もこのような問題について困惑し、混迷したまま21世紀を迎えようとしています。 創世記の描く悪の起源、それは最初の人間の神に対する罪の問題としてその根源に 迫ります。このような単純な、素朴な物語によって罪の根源が明らかにされるとい うのです。 最初にへびが誘惑者としてあらわれます。これはサタンをさすのではありません。 一つの物語を展開するための仕掛けとして考えるだけでいいでしょう。女に対する へびのことばは「園のどの木からも食べてはならないなどと神は言われたのか」と いう問いかけから始まります。この問いかけが曲者です。神は人を塵より造り、エ デンの園に住まわせて、見て美しく、食べるによいすべての木を生やし、人が生き る条件を整えて下さいました。そして、園の中央に善悪を知る木と命の木を生やさ せ、善悪を知る木の実については「決して食べてはならない、食べると必ず死んで しまう」と告げるのです。人間はある制約のもとでしか生きられないこと、ある境 界線があることを明らかにして、神の戒めのもとに生きるようにされたのです。へ びのことばは、これを全く曲解、誤解して神のことばを全面禁止のことばにしてい るだけでなく、生きる条件として示されていることばを強制、制約、束縛のことば に変えてしまっています。罪の誘惑はこのような問いのかたちで人間の心にもたら されます。 女は、このようなへびのことばに対して神を弁護するものとして立ち向かいます。 しかし、注意深く女のことばを読むと、まさにこの弁護において女の罪があらわに されているのがわかります。すなわち、神の戒めに対して正しく向かい合っていな いのです。過度に熱心で、肝心な点ではあいまいなのです。神の園の中央にある木 について食べてはならないといわれたのではなく、善悪を知る木の実を食べてはな らないといわれたのですし、これに触れてはいけないなどと語られたのではありま せん。自分で神の戒めを過度に厳しいものとしてつけ加えているのです。そして、 神が「必ず死ぬ」と言われているのに、「死んではいけないから」とやわらげてい るのです。肝心のことは曖昧にしているのです。神の戒めを自分の手でつくりかえ ている、その深みにある思いは、へびの追い打ちをかけるように語られることばに よって見事に見破られています。「決して死ぬことはありません。目が開かれて、 神のように、善悪を知るものとなる」という願いです。神のようになる、ある条件 の下でしか生きられない人間が、その制約や抑圧をはねのけて「神のようになるこ と」これが罪の根源にあるというのです。 神のようになる、そのような高慢、不遜、信頼の欠如、罪はサタンがもたらすも のではなく人間の中にあるものです。女は自分の目で見て判断し、そのように賢く なろうと願って自分の手で木の実を取り、自分の口で食べ、そして一緒にいた男に も食べさせた。「決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と神からの戒めを 直接に聞いたのは男ではなかったでしょうか。女にも教えたのは男ではなかったで しょうか。しかしここで男は何も語っていないのです。「神のようになる、すべて を知るものとなる」という願いはとどめようもないのです。 結果は、男も女も死ぬことはありませんでした。へびのことばのとおりに。そし て、二人の目が開かれたのです。へびのことばのとおりに。そして二人は裸である ことを知ったのです。神のように善悪を知るようになったのではなく・・・。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る