9月21日
1997年9月21日

「金の子牛に惹かれるイスラエル」

出エジプト記32章1−35


 イスラエルがエジプトを出て荒れ野の旅をしていく中で、「会見の幕屋」を持っ

ていたことについて学んでいます。しかしこの旅で、神ならぬ金の子牛を共同体全

体が拝んだというのです。一体どうしたことでしょう。モ−セがシナイ山から下り

てこないので不安になった民衆がアロンに頼んで金の子牛を造らせ、「イスラエル

よ、これこそあなたをエジプトの国から導き上がったあなたの神々だ」といって、

この子牛の前で捧げものをし、座って飲み食いし、立って戯れたというのです。

何故こんなことになったのか。人々は自分たちの先頭に立って荒れ野の旅を導いて

くれる神々を求めました。彼らは無神論者ではありません。神を必要としています。

彼らは観念的に神の存在を肯定しているだけではありません。生きた、歴史におい

て働く神を経験しているのです。金の子牛を拝むという明らかな偶像礼拝は、熱心

な信仰のただ中から生まれています。荒れ野の旅、モ−セの不在という危機が訪れ

たとき、先頭に立って進む神が必要だったのです。この場合は唯一の神ではなく、

神々です。まさに人間の必要に応えるための神ですから、神々の数は無限に増えて

いくのです。またこの神は人々のイヤリングを外して造られた金の子牛であったと

いうことも示唆的です。人間の飾りものとしての性格は神になってもイヤリングで

あっても変わりありません。

 金の子牛の礼拝には何が欠けているのでしょう。真の神との会見の幕屋における

礼拝とどこが違うのでしょう。生きた真実の神との出会いがない。人間の側だけの

信仰と熱心と狂騒があるだけで、生きた神の言葉と霊がないのです。一方交通の礼

拝、神の言葉に聞き、神の導きに従って歩むということがない。人間の期待と、独

りよがりな求めだけがあって、交わりがないのです。このような礼拝は、にぎやか

で、きらびやかで、大がかりでいかにも何かがありそうですが、実は内実は何もあ

りません。イヤリングで造られたきらびやかな造形物です。

 金の子牛を求めて礼拝したイスラエルの罪は、わたしたちの心の奥深くに潜んで

いるものと呼応していると言えないでしょうか。生きた神との交わりのまえに全身

を臨ませるふるえおののく体験を回避して、自分を導き上る限りにおいて必要とす

る神、自家製の神を求める思い・・・真の神に従うことを固く拒みながら、自分の

神々を求める思い・・・。わたしたちの教会の原型、「会見の幕屋」はこのような

罪が、主の赦しとあわれみによって回復された交わりの証しの場となっています。

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