創世記3章8−24
人間は罪を犯し、神が備えて下さった楽園を追放されたものとして生きている、 「一人の人が罪を犯したために、死が全人類に入り込んだ・・・一人の人の罪によ って多くの人が死ぬことになった」とパウロが語る事態はどのようなことだったの でしょうか。 最初の人間がおかした罪とその結果としての罰との関係は、人間自身の自覚的な 結果と神が与えられる処置との二つの方面から描かれています。罪、自らが神のよ うになろうとして神の定められた境界を踏み越えたことの結果は、突然に死が襲い かかるというものではないのです。むしろ自分の存在のあり方が変わってくるとい うことです。「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知った」、「主なる神 が園の中を歩まれる音を聞き、アダムと女は主なる神の顔を避け、園の木の間に隠 れた」と書かれています。自分が自分であることに耐えられなくなり、他者をあり のままのものとして受け入れられなくなり、互いに自分を隠すのです。神との親し く近い関係も疎ましく恐ろしいものに変わっているのです。そして、神に「どこに いるのか」と問いかけられると、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださっ た女が木から取って与えたので食べました」と言い訳をしています。自分で自分の 行為の責任がとれなくなり他者とも連帯できなくなり、裏切り、無責任な人間にな っています。神のようになろうとする罪の結果はこのような裸の現実に目が開かれ ることになっています。 しかし、罪はこのような人間の内側で、人間同士の間で結果が現れるだけでなく、 神からの処置があります。これはわたしたちにとって救いの可能性です。罰は神か らの罰としてあるということ、罪は神の前で放置されない、神は正しく処置してく ださるのです。女に対する神の罰は、はらみの苦しみを大きくし、それでも男を慕 うということ、生のもっとも感動的な部分の奇妙な苦痛と混乱、充実は痛み、愛し 慕うことは支配されることに、このような錯綜、これは文学の主題です。男に対す る罰は地に呪われ、生涯苦しみと共に働き、地は薊と茨のはえるところとなって人 間を苦しめます。そして人間も土に帰るのです。 主イエス・キリストが神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、アダム の子として生きることを決意し、十字架の死によって罪のあがないをされたという 人間の世界は、このような罪によって、慢性的に死が支配している世界です。赦さ れ、救われなければならない世界です。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る