申命記4章1−40
申命記は出エジプト記やレビ記民数記などのモ−セの律法の再解釈、再発見とい ったかたちで、神の戒めが持っている意味や精神を明らかにしようとしています。 その中の最初の長い説教が4章で、ここには十戒の第二戒「あなたないかなる像も 造ってはならない」について理路整然と、像によらない礼拝がいかに必要であるか を説いています。その根本にある精神が「いつ呼び求めても近くにおられる我々の 神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」ということです。ま た、「わかしが今日あなたたちに授けるこの全ての律法のように正しい掟と法を持 つ大いなる国民がどこにあるだろうか」です。エジプトを脱出し荒れ野の旅をする 中で経験した、神の導きのこのような近さ、神の熱情、恐るべき力を目の当たりに したこと、このことに心から震撼させられた精神が表現されています。ここから神 の像をつくってそれによって何か神秘的な力を呼び覚まし礼拝をするといったあい まいな礼拝を決して許さないという独特の礼拝の形が生み出されていることを知る ことができます。これはまた会見の幕屋やエルサレムの神殿のまことに簡素な構造 の由来です。 新約の教会、わたしたちの教会が神の特別な近さ、神の特別な慈しみや大いなる 御腕を感じるのは、モ−セが荒れ野で十戒を与えられたときよりはるかに優れたリ アルな方法によってです。イエス・キリストの生と死を通してわたしたちと共にい る神があらわにされているからです。その神と人とに仕える生涯、十字架の死に至 るまでご自身を捨て罪人のために引き渡される歩みを通して、神の愛はまさにこの 罪人であるわたしを対象にしていることが明らかです。主イエス・キリストの苦し みを通して、自分ではいかんともしがたいわたしたちの罪と死の力が滅ぼされ、復 活の命にあずからせてくださることを知るならば、「呼び求めるときはこれほど近 くにおられる神があるだろうか」という旧約の民の驚きは、もっとも切実にわたし たちの驚きでありまた感謝です。 ここから、わたしたちの教会の形、礼拝の形が、神の像や形を中心に据えたよう なものではないのは当然です。また、人間がつくりだす厳かなもの、人をひざまず かせるものによるのではなく、主イエス・キリストによってあらわされた生きた神 から恵みの言葉を聞き、主イエス・キリストによって開かれた主との交わりをあら わにする礼拝以外のものではあり得ません。