9月29日
1996年9月29日

「カインとアベル」

創世記4章1−16


 アダムとエバにつづいて舞台に登場するのはカインとアベルの兄弟です。エデン

の園を追放され、呪われた土と格闘するような人生の中にも「アダムはエバを知っ

た」というような深い慰めがあって、そこで子どもができると、エバは「わたしは

主によって男の子を得た」という喜びがあります。罪の故に産みの苦しみを与えら

れたその痛みをはねのけるように、「主によって得た」と叫ぶことができるほどの

感動、生命の誕生はそのような感動に満ちたものです。このようにしてカインとア

ベルは生まれ、カインは土を耕す人に、アベルは羊を飼う人として成長していきま

す。カインという名の意味は、「物をつくる、工作する、歌う、奏でる」などを含

み、アベルは「空気とか息、無益・無用」の意味で、この物語全体は、アベルがよ

くてカインが悪いことをしたというような話ではなく、カインの物語、罪を犯して

いくカインとそれに対する神の処置の物語です。この物語の中ではアベルはまった

く無言の脇役にすぎません。

 さて、時を経て、カインとアベルはそれぞれの献げものをもって神にささげます。

神はなぜかアベルのものに目をとめ、カインのものには目をとめられません。なぜ

かはわかりません。「主は憐れもうと思うものを憐れみ」という」神の自由の領域、

人間には侵すことのできない境界線の問題でしょう。注目すべきことは、人類最初

の殺人は兄弟の間で、しかも神へささげものをめぐって行われたと記されています。

それぞれが自分の収穫したものをささげる、これは人間でなければできないきわめ

て高度の精神的な、敬虔な行為です。カインもアベルも現代人のように忘恩無思慮

の徒ではないのです。きわめて精神的にも霊的にも健全な精神のただ中に罪への動

機が潜んでいます。カインが怒って神に向かって、アベルに向かって顔を伏せたの

は何故でしょうか。自分のささげものが受け入れられないで弟のものが受け入れら

れた、これが許せないものに思われたのは何故でしょう。ささげものが感謝の供え

物ではなく条件付きの感謝のものになっているからです。神はカインにとっては取

引の相手です。自らが神のようになろうという思いがあるからです。そこに罪が獣

のように待ち伏せし、襲いかかって罪の虜にしてしまう門戸が開かれています。こ

のようにしてカインはアベルを殺し、地の上を放浪する人になります。このように

して、救われなければならない人間のさまが、いよいよ明らかにされているのです。
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