1月10日
2010年1月10日

「ヨナの神 」

ヨナ書1:1‐9 マタイによる福音書8:18 - 27


 旧約聖書の中でヨナの物語は笑えます。次々に展開する情景は、まことに奇想天外、

おかしくて、腹を抱えて笑いたくなります。しかし、ヨナの歩みは、まさにわたした

ちキリスト者の歩みそのもの、その背信の構造が明らかにされ、戯画化されています。

 その最初の情景は、神の命に背いてタルシシュ行きの船に乗り、嵐に遭い、ついに

海にほうりこまれるところです。どうしてニネベに行けとの指示を拒否して反対の方

向に逃げようとしたのか。後になって明らかにされているように、「慈しみに富む神」

への一面的な信仰と、異邦の民ニネベの人々にも義を求め、悪に対する裁きを告げよ

と語る神との折り合いがついていないからなのです。ヨナは生きた神の命令より、自

分の中にある神の信仰に従うことにしたのです。その結果が、ヤッファに下ること、

タルシシュ行きの船に乗ること、船の底に下って眠りこむことでした。

 ヨナの信仰の歩みは、しかし、ヨナの決意によって貫かれるわけではありません。

神の風(霊)が海に向かって投げつけられ、大嵐に巻き込まれます。この災難が誰の

せいかを明らかにするためにくじを引くことになって、案の定、くじはヨナにあたり、

背信がみんなの前に暴露されることになります。その時に語った言葉、天の神、海と

陸とを創造された神を畏れるという正しい信仰の告白。まさに、この信仰の故に、ヨ

ナの罪を明らかにし、彼らの陥っている危機の本質を明らかにしているのです。ヨナ

の信仰とヨナの神とは別です。ヨナの信仰から出る言動を通して生きている神は表わ

されてはいません。むしろその不信仰に神が立ちふさがることを通して神が表わされ

ていのです。わたしたちの信仰は、独白の世界でなく、自分の中にある神ではなく、

わたしたちに向かい合う、生きて働く主なる神との対話の世界です。ここに希望があ

ります。

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