ヨナ書1:9‐16 ローマの信徒への手紙2:1 - 16
「『わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。』人々 は非常に恐れ、ヨナに言った。『なんということをしたのだ。』・・・彼らはヨナの 手足をとらえて海へほうりこむと、荒れ狂っていた海は静まった。人々は大いに主を 畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」 ここには、二つの種類の神への恐れ(畏れ)が記されています。ヘブライ人ヨナの 主への畏れ、他は、同船の人々の恐れです。ヨナの主への畏れは、荒れ狂う海に漂う 船の中で、何故にこの嵐が起こっているかを考え、その原因が自分の背信にあると気 付いて、彼は勇敢にも、自分を海の中に放り込んでくれ、と求めます。わたしたちも 病や災害など自然の猛威の中で、そこには得体のしれない何かの意思を感じることが あります。その得体の知れなさの正体が、生きた主なる神の自らの罪に対する処置で あると感じること、これは、神を畏れ、礼拝する者の宗教的な感覚だと考えることが できます。嵐に巻き込まれたヨナには、確かに、思い当たる所があったのです。そし て覚悟を決めて自分の命を海にほうりだすことによって同船の者を救うことができる と考え、その通りに実行した、真に信仰的な態度!しかし、このヨナの神への畏れは、 正しく神と向き合っている畏れであるのか、これが問題です。ヨナの神への畏れは、 彼の中の独白であって、神と対話になっていません。彼はこの危機に当たって主に向 かって叫ばないのです。悔い改めも、また、同船の者へのとりなしの祈りも彼の口か ら聞こえてきません。海に投げ込んでくれとの求めも、ただ神から逃げたいという願 いにすぎません。一方通行の神への畏れです。同船の者たちの神への恐れは、ヨナに 教えられた神への畏れですが、彼らは、大いに恐れて、何とか助かろうと積荷を投げ 捨て、懸命に船を陸に向けて漕ぎますが、海は荒れ狂うばかりです。とうとう彼らは ヨナの言葉に従って彼を海に投げ込んでしまいます。すると、海は静かになり、彼ら はそこから礼拝者として歩み始めます。彼らには生きた神への叫びがあり、交わりが あり、そこからヨナの苦しみに連帯する健康な神への畏れがあります。ヨナの死んだ 信仰が生きた畏れを生み出しているのです。
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