ヨナ書2:1‐11 マタイによる福音書12:38 - 42
海の中に投げ込まれたヨナ、「主は巨大な魚に命じて、ヨナをのみこませられた」、 「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した」この二つの文章の間に、魚の腹 の中からのヨナの祈りが記されています。魚の腹の中で人間が生きていられるのか、 などと問うてはなりません。これは物語なのですから。それより、ヨナ書の中で「神 が命じられた」と語られる相手が、「巨大な魚」であったり、「とうごま」や「東風」、 「虫」であったりするところが注目されるべきです。言葉など通じるはずのないこれ らのものが、この物語ではただ機械的ではなく、臨機応変に、主の言葉に従順に従っ て生き生きと働くのです。それに比べて、神の言葉に聞き従うはずの人間ヨナはどう か・・・。どこかチクリと刺されて、苦い笑いを誘います。 魚の腹の中からのヨナの祈りは、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えて下さ った」という感謝と驚きで貫かれています。この感謝が、どの位置からの喜びと感謝 であるかを見る時に、わたしたちが立ち返り、主なる神との生きた交わりが回復する 場について再確認させられます。「陰府の底から」、「深い海」「深淵」「滅びの穴」 この詩の中に使われているこれらの言葉はすべて「死」を表現する言葉です。生物的 な死ではなく、人間の死の恐れを表現する時、このような言葉が使われます。神の声 が届くことなく、神への声も届かない、まさに神から最も遠い世界に投げ込まれるこ と、しかもそれは、「あなたの激流、あなたの大波がわたしの上を越して行く」とい うように、その苦難がほかならぬ神ご自身からのもの、神の裁きとして、「水がわた しをめぐって魂にまで及ぶ」ということになっているのです。救いようのない世界、 救われようのない世界にいるわたし、この位置から主に向かって叫ぶと、主はその声 を聞いて、滅びの穴から引き上げてくださった、というのです。まさに、この意外性、 驚きによって、この祈りの生気が立ちあがっています。ヨナは、この祈りによって、 彼の独白的な信仰から、生きた神との対話的な信仰へ、恵みの神と裁きの神の分裂し た信仰から、裁きのただ中でこそ、生きた恵みの神に出会えるという信仰へと回復さ れているのです。
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