2月7日
2010年2月7日

「 愛の神と裁きの神 」

ヨナ書4:1‐5 ローマの信徒への手紙6:1 - 14


 ヨナの説教によってニネベの人々は神に立ち帰り、その行いを悔い改めて悪の道を

離れた。たった5文字の説教が引き起こした効果は圧倒的なものでした。しかし、話

はここで終わりません。ヨナがここで神に向かって怒り始めるのです。

「ああ、主よ。わたしがまだ国にいましたとき、言ったではありませんか。だから、

わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしにはこうなることが分かっ

ていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを

下そうとしても思い直される方です。主よ、どうかわたしの命を取って下さい。生き

ているより死ぬ方がましです。」

 ヨナはニネベの人々の立ち帰りを主の前で共に喜びません。ヨナの心を真に神に立

ち帰らせるには5文字の説教では不可能です。彼の祈りのなんと滑稽なこと。

 ヨナが主なる神に向かって語っている言葉、恵みと憐れみに富む神は、イスラエル

の信仰共同体の歴史を貫く中心的な信仰告白です。出エジプトにおいて、預言者たち

の神への立ち帰りを促す言葉において、絶えず繰り返された信仰、何より、ヨナ自身

が陰府の底から祈ったときの信仰そのものでした。神の本質についての認識、彼自身

のそれによって救われた主なる神の思いそのものが、ニネベの人々に向けられるとき、

ヨナは怒り、生きているより死ぬ方がましだ、とさえ思うのです。それほどに、生き

ている根底が揺るがされているということです。彼が海にほうり込まれる前に語った

信仰告白、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」

と言い、この信仰告白と言い、それぞれ全く正しいものですが、それがヨナの状況で

使われると、少しも、その信仰が魂を生かすものではなく、むしろ皮肉なものになっ

てしまっていることに気づかされます。神中心ではなく、自己を中心にするときに、

信仰がどれほど滑稽なものになるかをこれほどにリアルに描き出しているものはない

でしょう。その滑稽さを通して、実は、わたしたち信仰者の魂の解剖図が示されてい

ます。表面的な言葉の裏側にある思い、その肺腑を解剖すると、実に自己中心的な思

いが支配していることが示されます。

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