2月28日
2010年2月28日

「 わたしたちの本国は天にある 」

創世記 15:1‐21 フィリピの信徒への手紙 3:17 - 4:1


 フィリピの手紙は、パウロがマケドニアに渡って最初に福音を伝えることから始ま

った教会に宛てた手紙です。「喜びの書簡」と言われるように、主イエス・キリスト

の死と復活に与って、豊かな信仰生活を送っているフィリピの教会のキリスト者に対

して、深い信頼と喜びの中からこの手紙が書かれていることがわかります。

 そのパウロが、心を痛め、泣きながら訴えなければならない人々の生き方があるこ

とを知らされます。「今また、涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して

歩んでいるものが多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、

恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(3:18、19)、

と。「十字架に敵対して歩んでいる者」とはどういう人のことなのか、とても気にか

かります。これは、キリスト教に敵対し、迫害するような明らかな反対者というので

はなく、キリスト教信者の中にある「似て非なる者」のことを指摘していますから、

わたしたちの信仰のあり方について深く検討を迫ります。他のパウロの手紙なども考

え合わせると、「十字架に敵対して歩んでいる」と指摘されるのは、ユダヤ人のキリ

スト者で、ユダヤの律法や割礼などの習慣を異邦人でキリスト者になった人々にも施

すべきだと主張してパウロの宣教の妨害をした人々のことであることが分かります。

しかし、なぜそれが十字架に敵対した歩みになるのか、そのことを理解するとき、こ

の言葉がユダヤ人キリスト者だけでなく、あらゆる時代のすべてのキリスト者が容易

に陥る危険と、立ち帰るべき処がどこにあるのかを確認することができます。十字架

はすべての罪を赦して、信じる者を義とする恵みですが、同時に、自分のうちにある

ものを誇り、それに依拠して生きるすべての営みを打ち砕かれます。そこから、主イ

エスのへりくだりに倣う歩みがはじまります。その歩みを導くものは、「わたしたち

の本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが来られるのを、わたしたちは

待っています」という希望なのです。生きるべき場を、この地上のいかなる所でもな

く、天に持っているのです。

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