詩編 126編 ヨハネによる福音書 12:1 - 8
主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアでナルドの香油を注がれた話は、よく 知られています。4つの福音書にそれぞれ少し違った形でこの出来事が記されており、 それぞれが独特のメッセージを伝えています。ヨハネによる福音書にも、独特の情報 が盛り込まれていますが、何よりも、すぐ前にラザロの復活のことが語られていて、 人々は驚き、主イエスのもとに押し寄せます。それを見た大祭司のカイアファが、 「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都 合だということを考えないのか」と言ったことや、そして、このマリアの行為の後に、 祭司長たちが主イエスと一緒にラザロも殺そうと謀ったことが記され、エルサレム入 城へと続きます。主イエスの死が刻々と迫っている現実、そこに向かって自ら進んで 行かれる主イエス、この大きな構図の中で、マリアの大胆な、唐突な行為は何を意図 するものであったか、また、その意味は何であったかが問われます。 マリアの行為は、ラザロの復活と関連させて考えるのは当然です。死人を生き返ら せる主イエス、それには、どんな代価を払っても惜しくはないほどの感謝と礼拝が伴 います。マタイやマルコは香油を頭に注ぎかけていますが、ヨハネとルカは主の足に 注ぎ髪の毛で拭いています。足を洗い拭くという行為は、後で主ご自身が最後の晩に 弟子たちにされることに繋がります。マリアが意図したこと、それがどんなに唐突な 場違いなものであっても、深い感謝とすべてをささげて主に仕え、主に従う、愛と誠 にあふれた思いであったことは確かです。しかし、その行為は主の「葬りの用意」で あった・・・。主の足もとにひざまづき、栄光の主を拝する行為は、主ご自身が弟子 たちの足を洗う先駆けとなっている・・・。マリアの行為と主がそれを受取られる思 いとは全く違っています。栄光の主を拝する行為は僕の道を歩み通される主の「葬り の用意」、マリアの献身の行為は、主ご自身のへりくだりの中に包み込まれる、その ような姿があらわに示されています。わたしたちの主への献身、礼拝や奉仕も、まさ にこのように主に受け入れられ、その贖いによってのみ、意味づけられるのです。
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