4月4日
2010年4月4日

「 眠りについた人たちの初穂として 」

イザヤ書65:17〜25 コリントの信徒への手紙一15:12〜28


 コリントの信徒への手紙一・15章全体は、主イエス・キリストの復活の事実とそ

の復活によってわたしたちにも復活の希望が与えられることを力強く証ししています。

その中で12節〜19節では、「死者の復活などはない」という懐疑論に対して、

「もし〜ならば」という構文を連続して6回使って、死者の復活が確かにあることを

逆説的に主張しています。そこで主張される論点は2つのことです。

1)死者の復活がないのならキリストも復活しなかったはずだ。

2)キリストが復活しなかったなら、わたしたちの宣教は無駄、あなた方の信仰も無

駄、わたしたちは神の偽証人、この世の最も惨めなものだというのです。

これらの二つの論点は、キリスト者の復活の信仰を支える基本的な論点ですが、何と

も不思議な論理です。

 主イエス・キリストの死人のうちからの復活という歴史的な特殊な出来事と、わた

したちの復活の可能性という普遍的な出来事とを直接に結び付けているのです。復活

を信じるということは、ただ主イエスに起こった昔の出来事を受け入れるということ

に留まりません。わたしのうちに起こる確かなこととして信じるということです。そ

れは、主イエスが真の神として彼の内にもつ神的な力によって復活した「神の復活」

ではなく、十字架によって死なれた人間の死から引き上げられた事態であることを伝

えています。十字架の死がわたしたちの罪のための死であるように、主の復活も「わ

たしたちのための復活」であって、キリストの死に合わされたものが、その復活の命

にも包まれることを意味しています。ということは、わたしたちが復活の可能性につ

いて考える時、わたしたち自身の生命に内在している復活の力などを考えても、復活

の希望を見出すことはできないということ、主イエス・キリストの死と復活を考え、

主を仰ぐことのうちにしか復活の希望はないことを教えられます。

 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教も、信仰も無駄となり、生活

のよりどころを失ってしまうと、復活の信仰こそわたしたちの宣教の中心、救いの確

かな根拠、生活のよりどころである、とその重要性を強調しているのは、もっともで

す。

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