ヨシュア記22章10−40,24章14−27
イスラエルが荒れ野の旅を終えて乳と蜜の流れる地カナンに住むようになってか ら、どのような国家形成がなされたかについて知ることは、わたしたちの教会の共 同体の性格を知る上で大切なことを教えられます。多くの旧約学者は、この時代は 十二部族の連合体として、中央聖所を中心に構成された国家だったといいます。こ れをギリシャの類似の共同体の例に倣って「アムフクチィオニ−、周辺に住む者た ちの共同体」といいます。年に1回ないし3回全国民が中央聖所に集まって共に神 を礼拝し、そこでさまざまな政治的な問題を話し合う部族連合体です。イスラエル の場合中央聖所はシケム、ベテル、ギルガル、シロと移って、やがてダビデの時代 になってエルサレムが恒常的な聖所の町ということになります。 イスラエルの共同体は聖所を中心にした共同体です。ヨルダンの向こうの部族が もう一つの大きな祭壇を造って聖所の中心が犯されそうになったときのイスラエル の激しい反応がヨシュア記22章に記されています。二つの祭壇、二つの中心を許 さないのです。この中央聖所での祭儀や集会は非常に特徴のあるものです。ここで 神からの律法が読まれ、荒れ野で経験した神の導きの歴史が想起される礼拝なので す。人間の側の一方通行の願いや踊り騒ぐことが礼拝の中心ではないのです。「わ たしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、・・・主はわたしたちの声を聞き、わ たしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、 大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、 この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。」(申命記26.5-10) という告白が語られるような「言葉の礼拝」です。言葉の礼拝は聞く者の主体的な 決断を促します。ヨシュアが最後の説教の中で、主を畏れ、真心と真実を持って主 に仕えるようにすすめて、「もし主に仕えたくないというならば・・仕えたいと思 うものを今自分で選びなさい。ただしわたしとわたしの家は主に仕えます」といっ ています。「神を選べ」という恐るべき危険な言葉であえて人々に挑戦し、主体的 な決断をもって主に仕えるように迫っています。父祖が礼拝したからとか、権力者 や周囲が礼拝するからということではすまされない、主体的な決断をもって全身全 霊で礼拝し、そこから生きることが求められているのです。聖所は一人一人の神の 恵みに対して主体的に応答して生きることを決断した人々の決断の集合点であり、 集まる毎に神の恵みを確認する場所です。