エゼキエル書 34:11-19 ルカによる福音書 15:1-7
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。」主イエスに対するファ リサイ派の人々や律法学者の批判は、特にこのことをめぐって鋭く激しくなっていま す。食事の仲間は大切です。その人が共有できる価値観、文化、信仰が、誰と食事を しているかによって現わされるからです。主イエスの食事の仲間は徴税人や罪人。こ れは格好の批判の対象になります。このような聞く耳を持たない、敵対するために身 構えているような聴衆に対して、打ちとけようもない壁を打ち破って心を開いて対話 をするために主イエスが用いる方法が、「たとえ話」です。主イエスの譬話は、何か を何かにたとえるような、徴税人を狐に、ファリサイ派の人々をオオカミにたとえる ようなものではありません。日常生活の中にある小さなドラマに引き込んで、そのド ラマの展開と共に、心配したり、驚いたり、ホットしたり、喜んだりする心の動きを 経験させて、その中で、主イエスの言葉と行いが何を意味しているかを悟らせるもの、 主イエスのたとえは、わたしたちを心の旅に呼び出し、その旅を経験することによっ て心を新しい世界に向かって開かせるカギを与えて下さるのです。 「あなたがたのなかに百匹の羊を持った人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九 十九匹の野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」主 イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちを、羊飼いのドラマの主役に仕立てます。 彼らは知っています。昔、預言者たちが、主なる神は失われた羊を捜し出す良い羊飼 いのように働かれる、と教えたことを。彼らは神の味方、良い人であることを自任し ていますから、当然、見失った一匹のことなどどうでもよい悪い羊飼いの立場にはな れません。99匹を野原に残して失われた一匹を探し回る良い羊飼いのほうに自分の 生き方があると思います。そこで主は語られます。「このように、悔い改める一人の 罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜 びが天にある」と。見失った一匹の羊を見つけ出した羊飼いの喜びと、一人の罪人が 悔い改めたときにある天の喜び、わたしたちの心にも、たとえ話を聴きながら、その 天の喜びが伝わってきます。
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