ダニエル書 9:1-19 テモテへの手紙一 1:12-17
終わりの時の幻を語るダニエルが、主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰を かぶって祈る、罪の告白の祈り。わたしたちも罪の告白の祈りをしますが、ダニエル の祈りはその祈りの不思議な構造について考えさせられます。この祈りはエルサレム の荒廃という現実を目の当たりにして祈られています。「エルサレムに下された災難 ほど恐ろしいものは未だ天下に起こったことはありません」、というほどの荒廃に直 面して、そこからの救出を願っていることは間違いありません。しかし、その救出を 祈る祈りが、意外な方向に進みます。神の前にみずからの罪を認識し、赦しを求める 罪の告白の祈りとして表現されているのです。「わたしたちユダヤのもの、エルサレ ムの住民、すなわ ちあなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠く、また近 くに住むイスラエルの民すべては、今日のように恥を被っているのは当然なのです」。 「わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も近隣の民すべて から嘲られています」。このように、苦難に直面しながら、苦難をもたらす現実その ものにではなく、その背後にある、あるいは、根底にある、自らの罪を認め、懺悔す るということは、どう見てもわたしたちの自然の感情の赴くところではありません。 「わたしたちは罪を犯し、悪行を重ね、背き逆らってあなたの戒めとさばきから離れ 去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、 父祖、そして地の民すべてに語ったのに、聞き従いませんでした」と、ひたすら、罪 の告白に終始しているのです。 このように荒廃の現実の中で罪を認め、告白する魂は、さらに、意外な方向に展開 します。「わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主ご自 身のために御顔の光を輝かせてください」。「わたしの神よ、ご自身のために救いを 遅らせないでください」と祈るのです。自分自身が救いと解放の道を模索するという 方向ではなく、神の義と神の御名、神の御顔の輝きが回復される時、そこに救いがあ ると認め、そこに希望と祈りの方向を見出しているのです。主なる神との正しい交わ りの回復にこそ救いがある、主の名による祈りの向う方向もしかりです。
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