9月19日
2010年9月19日

「 罪の告白の祈り 」

ダニエル書 9:1-19 テモテへの手紙一 1:12-17


 終わりの時の幻を語るダニエルが、主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰を

かぶって祈る、罪の告白の祈り。わたしたちも罪の告白の祈りをしますが、ダニエル

の祈りはその祈りの不思議な構造について考えさせられます。この祈りはエルサレム

の荒廃という現実を目の当たりにして祈られています。「エルサレムに下された災難

ほど恐ろしいものは未だ天下に起こったことはありません」、というほどの荒廃に直

面して、そこからの救出を願っていることは間違いありません。しかし、その救出を

祈る祈りが、意外な方向に進みます。神の前にみずからの罪を認識し、赦しを求める

罪の告白の祈りとして表現されているのです。「わたしたちユダヤのもの、エルサレ

ムの住民、すなわ ちあなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠く、また近

くに住むイスラエルの民すべては、今日のように恥を被っているのは当然なのです」。

「わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあなたの民も近隣の民すべて

から嘲られています」。このように、苦難に直面しながら、苦難をもたらす現実その

ものにではなく、その背後にある、あるいは、根底にある、自らの罪を認め、懺悔す

るということは、どう見てもわたしたちの自然の感情の赴くところではありません。

「わたしたちは罪を犯し、悪行を重ね、背き逆らってあなたの戒めとさばきから離れ

去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名によってわたしたちの王、指導者、

父祖、そして地の民すべてに語ったのに、聞き従いませんでした」と、ひたすら、罪

の告白に終始しているのです。

 このように荒廃の現実の中で罪を認め、告白する魂は、さらに、意外な方向に展開

します。「わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主ご自

身のために御顔の光を輝かせてください」。「わたしの神よ、ご自身のために救いを

遅らせないでください」と祈るのです。自分自身が救いと解放の道を模索するという

方向ではなく、神の義と神の御名、神の御顔の輝きが回復される時、そこに救いがあ

ると認め、そこに希望と祈りの方向を見出しているのです。主なる神との正しい交わ

りの回復にこそ救いがある、主の名による祈りの向う方向もしかりです。

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