ヨハネによる福音書1章1−18
わたしたちが神との交わりに入れられるにいたる正しい入り口はどこにあるのか、 これは重大な問題です。ヨハネによる福音書は、天地のはじめに神とともにあり、 すべてのものがそれによってできた「ことば」がイエス・キリストにおいて肉体と なってわたしたちの中に宿り、わたしたちに神の恵みと真実をしめしてくださった。 わたしたちの中で神を見たものは一人もいないけれども、神の独り子であるイエス・ キリストによってわたしたちは神を知り、神を見ることができると主張します。こ のキリストを信じることによってわたしたちも神の子としての権威を与えられ、命 と光にあずかるものとなるというのです。 「わたしたちはその栄光を見た。それは神の独り子としての栄光であって、めぐ みとまこととに満ちていた」と語ります。ヨハネが見た神の独り子としての栄光と はどのようなものであったのか、ヨハネの全体を見ていくと驚くことに気づかされ ます。イエス・キリストの生涯における栄光は病人を癒し、水を葡萄酒に変え、生 まれつき目の不自由な人の目を開き、ラザロを死人から甦らせたというようなこと よりも何よりも、十字架において一粒の麦として多くの人の罪のために死ぬこと、 これこそ「栄光を受けるとき」としています。(12.1;13.31;17.1を見て下さい)。 永遠の見えざる創造の「ことば」である神が「肉体」をとってわたしたちの間に宿 るということ、これはわたしたちの思念を超えたことですが、そこには神の無限の へりくだりを見ています。そして、この肉体をとってわたしたちの間に宿られた「 ことば」が、一粒の麦として多くの人のために死をうけ、しかも裏切りと嘲り、闇 の支配の勝利を証しするような十字架の死をとげること、そのような時を経験され ることによって、神の子としての「栄光」をあらわしていると語るのです。これは、 この世の人々が「神を見た、神々が現れた」という仕方と何と遠く離れていること でしょう。 「わたしたちはその栄光を見た。それは恵と真とに満ちていた」というとき、こ の「わたしたち」はどのような人たちでしょう。このような神のへりくだり、わた したちの弱さと罪をになって最後まで愛しぬく神のこのような働きによらなければ、 救われようがないと知っている人、まさにこのイエスの歩みの中に永遠の神の恵み と真実を見た人です。不思議なことに、この「わたしたち」はいつの時代にも絶え ることがないのです。