イザヤ書 55:1-11; ルカによる福音書 4:14-30
終わりの時の幻を語るダニエルが、主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰 をかぶって祈る、罪の告白の祈り。わたしたちも罪の告白の祈りをしますが、ダニ エルの祈りはその祈りの不思議な構造について考えさせられます。この祈りはエル サレムの荒廃という現実を目の当たりにして祈られています。「エルサレムに下さ れた災難ほど恐ろしいものは未だ天下に起こったことはありません」、というほど の荒廃に直面して、そこからの救出を願っていることは間違いありません。しかし、 その救出を祈る祈りが、意外な方向に進みます。神の前にみずからの罪を認識し、 赦しを求める罪の告白の祈りとして表現されているのです。「わたしたちユダヤの もの、エルサレムの住民、すなわ ちあなたに背いた罪のために全世界に散らされ て、遠く、また近くに住むイスラエルの民すべては、今日のように恥を被っている のは当然なのです」。「わたしたちの罪と父祖の悪行のために、エルサレムもあな たの民も近隣の民すべてから嘲られています」。このように、苦難に直面しながら、 苦難をもたらす現実そのものにではなく、その背後にある、あるいは、根底にある、 自らの罪を認め、懺悔するということは、どう見てもわたしたちの自然の感情の赴 くところではありません。「わたしたちは罪を犯し、悪行を重ね、背き逆らってあ なたの戒めとさばきから離れ去りました。あなたの僕である預言者たちが、御名に よってわたしたちの王、指導者、父祖、そして地の民すべてに語ったのに、聞き従 いませんでした」と、ひたすら、罪の告白に終始しているのです。 このように荒廃の現実の中で罪を認め、告白する魂は、さらに、意外な方向に展 開します。「わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主 ご自身のために御顔の光を輝かせてください」。「わたしの神よ、ご自身のために 救いを遅らせないでください」と祈るのです。自分自身が救いと解放の道を模索す るという方向ではなく、神の義と神の御名、神の御顔の輝きが回復される時、そこ に救いがあると認め、そこに希望と祈りの方向を見出しているのです。主なる神と の正しい交わりの回復にこそ救いがある、主の名による祈りの向う方向もしかりで す。
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