12月19日
2010年12月19日

「キリストの従順 」

イザヤ書 45:22-25; フィリピの信徒への手紙 2:1-13


 クリスマスは、神の御子、主イエス・キリストの生涯全体が覚えられるべき時で

す。神の子であられたが、それを固守すべきものとはせず、自分を低くして人間の

姿になり、死にいたるまで、しかも、十字架の死に至るまで従順の歩みを貫かれた

主イエス、それゆえに神は、彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を与えられ

た、と語る「キリスト賛歌」は、とりわけ、この時期に思い起こされるにふさわし

いみ言葉です。この主イエスの歩みは、また、わたしたちの生活と直結しています。

この歩みを覚えることによって、「恐れおののきつつ、自分の救いの達成に努める

ように」、との勧め、また、心を一つにして互いに相手を自分より優れたものと考

え、自分のことだけでなく、他人のことも考えるように、との具体的な生き方が指

示されているからです。

 「キリスト賛歌」に歌われている主イエス・キリストは、最も古い教会のキリス

トへの信仰告白の一つですが、人としておとめマリアから生まれる以前のキリスト、

十字架の死を遂げてから後のキリストを含む壮大なスケールで永遠の存在者として

のキリストが歌われています。その働きの中心は、自らを貧しく低くい者として、

へりくだり、死に至るまで従順であった歩みにあるのは確かです。「自分を無にす

ること」「貧しく低い者となること」これは、わたしたちにとって最も避けたいこ

とで、そのようにならないように日々の努力を重ねているのが現状です。アダムと

イブが「神のようになるのにふさわしい」と思ったので、善悪を知る木の実を取っ

て食べた、その遺伝子は、わたしたちの誰もが引き継いでいます。神のようになる

こと、満たされること、誰よりも高くなること、そしてその結果、たがいに貶めあ

い、傷つけあっています。しかし、主イエスは、神の子であることを固執しないで

人間になられた、まさに、アダムの逆の歩みです。「人間であるわたしたちのため

に、わたしたちの救いのために」そのようにしておられるのです。ここに新しい人

がはじまっています。主イエスに結びつく人は、キリストの贖いにあずかり、罪か

ら解放されたものとして、アダムの裔ではなく、キリストに連なる新しい人です。

新しい人の生活は、単純で具体的です。「心を一つにして、互いに相手を自分より

優れたものと考え、・・・」

秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る