イザヤ書 61:1-11; ヨハネの手紙一 1:1- 2:2
ヨハネの手紙一の冒頭の言葉は、わたしたちのキリスト教の信仰が何であるかを 端的に言い表しています。すなわち、わたしたちの信仰は「いのちの言」である主 イエス・キリストから聞くことによって、御父と御子イエス・キリストとの「交わり」 に入れられること、と教えられるのです。 「命の言」について、不思議なことが言われています。「初めからあったもの、 わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの」と言われ、そ の命の言葉は、「御父と共にあったが、わたしたちに現れた永遠の命」であると。 ここに言う「言」(ロゴス)は、わたしたちが日常で使う言語よりもっと根源的な 言葉を意味しています。はじめからあったもので、「万物はこれによってできた。 これによらないものは何一つなかった」という、存在しているすべてのものを存在 させている言葉そのもののことです。よく考えると、この「ことば」は隠されてい るもの、秘められたものであって、その「真理・本質」を知ることに向って、人類 はすべての努力を傾注しているというべきものでしょう。しかし、聖書は、わたし たちはこれを見た、聞いた、手で触った、と言います。主イエス。キリストを見る こと、その言葉を聞くこと、知ることが、このような根源に触れること、その言葉 の命によって生きることであることを明らかにしているのです。主イエスを知る驚 きと喜びの表現の極致です。 しかも、「いのちの言」によって生きることは、「交わり」に入れられることが 明らかにされます。御父と御子イエス・キリストとの交わりです。御父との交わり について、「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたち が生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました」(4:9) と記され、また御子との交わりについて「イエスは、わたしたちのために、命を捨 ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(3:16) と記されています。命の言葉との交わりは、このように御父と御子のわたしたちに 対する愛によって始まり、支えられる交わりです。わたしたちの信じる力や知恵に よる行為ではなく、御父と御子とのこの交わりに入れていただくこと、ここにわた したちの信仰があります。
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