12月26日
2011年1月2日

「主に献げた者としての生活 」

サムエル記上 1:20-28 ; ローマの信徒への手紙 12:1- 8


「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体

を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなた方の

なすべき礼拝です。」

 日常の生活から離れて家族と共に過ごしたり、ゆったり立ち止まって、自分の歩

みを振り返る新年の時、あらためてこのみ言葉を新鮮な心で聞くことができれば幸

いです。献身と礼拝の生活、ここに主イエス・キリストの救いにあずかる者の基本

が示されています。しかし、ここで示されているのは、ありきたりの礼拝のすすめ、

奉仕の勧めではありません。ここには、わたしたちが礼拝や奉仕を考えるとき、全

く新しい捉え方をしなければならないことが教えられているからです。「心を新た

にして、自分を変えていただき・・」とあるとおりです。

 礼拝が命がけのこと、それほどに重要なことであることは、キリスト者の礼拝で

なくても、旧約の人々も、また、多くの社会の人々も認識していました。神礼拝が

単なるお祭り騒ぎではなく、牛や羊の血を注ぐことなしには神の前に出ることはで

きないと感じる感性が働いていたのです。自分の体をいけにえとしてささげるよう

に勧める新しい礼拝のとらえ方の新しさは、わたしたちの礼拝に対する真剣さがそ

の核心にあるのではありません。そうではなく、神の側の働き、主イエス・キリス

トによる罪の贖いの行為によって新しくされた礼拝のあり方が示されているのです。

「神は、このキリストを立てて、その血によって信じる者のために罪を償う供え物

となされました」(ローマ3:25)。「罪を取り除くために、御子を罪深い肉を同

じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。

このキリストの贖いを信じる者は、無償で、無条件で救いにあずかる、ここにキリ

スト者の信仰と生活の出発点があります。主イエス・キリストが罪を償う供え物と

してその生全体をささげられたことに対応するキリスト者の生き方は、全身を生き

た供え物として神にささげる以外には考えられません。「生きた供え物」は矛盾し

た言葉です。わたしたちは死んだ供え物になる必要はないのです。主イエスによっ

て成し遂げられた贖いの恵みを体全体で感謝し、主の義をあらわす現実に生きる生

活、生涯、これが新しい礼拝です。

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