エステル記 1:1-13 ; ペトロの手紙一 4:1- 11
旧約聖書の物語を学ぶシリーズの最後、エステル記の講解説教を始めます。エス テル記はユダヤ人を迫害するペルシャの民を手当たり次第に殺害し、復讐した日を 祝うプリムの祭りの由来を伝える物語です。あまりにもユダヤ的な色彩の濃いもの であり、この書の中には一度も「神」と言う言葉はありません。この非宗教的に見 える物語がどうして旧約正典の中に入れられたのか不思議に思いますが、この点に ついては、2世紀ごろのラビたちの間でも、また特にキリスト教教父たちの中でも 異論があったようで、このような書物が聖書に入れられることによって「手を汚し た」と語るラビたち、この書の注解を書くことを拒んだ多くの教父たちがいます。 しかし、ユダヤ教では次第にこの書の重要性が認められ、中世の有名なラビ・マイ モニデスは、「世の終わりが来て他の一切の聖書が消え去っても、トーラー (モー セ5書)とエステル記だけはいつまでも残る」と言ったほどです。プロテスタント 教会では、ルターの言葉がよく引用されます。「この書は存在しなかった方が良かっ たと思っている。あまりにもユダヤ的なものであり、異教的な精神のものだ」とい うのです。この書の存在のゆえに、ナチスのホロコーストに見られるようなユダヤ 人に対する反感と残虐行為を引き起こしたともいわれます。このように、議論の多 い書物ですが、これが聖書の中にあり、これを通して御言葉が語られており、神の 前にある人間の現実が伝えられていることに変わりはありません。旧約から新約へ の展開をみるためにもこの書と直面することは意味のあることです。 物語は、ペルシャのクセルクセス王の宮廷の出来事から始まります。王国の繁栄 と栄華を称える大宴会、この「酒宴」が物語のキイワードです。三度の酒宴、諸州の 長や貴族を集めた180日間の酒宴、スサの街の民すべてを宮廷に招いた7日間の 酒宴、そして、王妃ワシテの後宮の女性たちの酒宴、人間の権力を讃え、歓楽と欲 望の極みを象徴する酒宴によって、大いなる不協和音が鳴り響いています。上機嫌 の王が美貌の王妃ワシテに冠を着けてみんなの前に出てくるようにと命じましたが、 この王の命にワシテは従いませんでした。見世物になることを拒否したのでしょう。 まさにこの人間世界の世相そのものが映し出されています。
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