エステル記 1:14-22 ; エフェソの信徒への手紙 5:21- 33
ペルシャ王アハシュエロスの宮廷の大宴会と酒宴の席で、王は上機嫌になってそ の酒宴に王妃ワシュティを呼びだし、その美貌を並みいるペルシャの高官たちやス サの街の人々に見せようとします。何と、王の命令を宦官たちが伝えると、王妃は これを拒否したのです。なぜ拒否したのか、物語は何も教えてくれません。それほ どありふれたことだったのでしょう。高慢と自惚れによって自分を大きく見せたが る夫と、プライドの高い未成熟な妻、どこにでもあるような夫婦の感情の行き違い。 結婚式のとき、わたしたちはエフェソの信徒の手紙によって、妻には主に仕えるよ うに夫に仕えるように、夫にはキリストが教会を愛されたように妻を愛するように との教えを聞きます。そこでは「キリストに対する畏れをもって、互いに仕えあう ように」、と相互性が強調されています。相互が相手を思いやり仕えあうようにす れば問題は起こりませんが、その相互性が壊れると、あらゆる機会に不協和音が響 き渡ります。最も緊密な関係であるべき夫と妻の関係も、キリストと教会の関係を 常に想起しなければならないほどに、わたしたちの人間関係はもろく危ういことを 思い知らされます。 王の命に反抗して酒宴の席に出なかった王妃ワシュティのふるまいに怒ったアハ シュエロス王は、この処置をどうしようかと「経験を積んだ賢者たち」に相談します。 「経験を積んだ賢者」とは「時を知っているマギたち」、あのクリスマスのときに 宝を持って登場するマギたちの同類ですが、7人もそろって全くその本来の役割を 果たしていません。和解と事の沈静化を図るどころか、針小棒大に些細な感情の行 き違いを、国の法律まで作って、ワシュティの廃位にまで至らせてしまっています。 「王妃ワシュティのなさったことは、ただ王のみならず国中のすべての高官、すべ ての民にとって都合の悪いことです」と。男社会への挑戦と受け取り、ヒステリッ クに対応します。それぞれの賢者の夫婦の関係の貧しさを想像させます。その結果、 王家の家庭問題を国中に知らしめることになりました。この物語の背後にある話者 の冷たい笑いをわたしたちは感じます。その笑いの背後に天に座する者の笑いを知 るのです。人間の権力社会、富や権力、それを維持する法律や官僚機構が何によっ て動かされているかを冷たく見通している者の笑いです。
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