11月2日
1997年11月2日

「ダビデの踊り」

サムエル記下6章1−23


 イスラエルの「神殿」の歴史をたどると、ダビデ王の時に重要な変革があったこ

とがわかります。「会見の幕屋」を中心にもった、イスラエルの十二部族の連合体

は、「神の箱」をシケムやシロ、ベテル、ギルガルなどと転々と動かしていました。

しかし、ダビデはエブス人の町エルサレムをとって、神の箱をここに移して以来、

中央聖所はエルサレムから動くことななくなりました。エルサレムは永遠の神の都

と称されるようになるのです。サムエル記下6章は、その神の箱をエルサレムに移

すという、まことに政治的な出来事を伝えています。

 しかし、一読してわかるように、何か人間的な、政治的な策動というのとは全く

違う光景がこの神の箱を移す時に繰り広げられたことを伝えています。喜び祝って

シンバルや鈴や角笛が奏される中で、ダビデが神の箱の前で先頭に立って踊ってい

るのです。「主の前で力の限り踊った」のです。この喜びと踊りは、浮かれ騒いで

羽目を外しているのではありません。恐ろしく緊張したものだったでしょう。祭司

の着るエポデだけを身につけて、裸をむき出しにして、くるくると廻り、飛び跳ね

る、それはおおよそ王たるものにふさわしい威厳に満ちたものではありません。ま

るで空っぽの男のように踊っているのです。サウル王の娘で妻のミカルはダビデの

踊るその様に軽蔑をし、皮肉を言います。ダビデはしかし、それに対して「このわ

たしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主のみ前で、そ

の主のみ前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目に低いも

のとなろう」と語っています。

 ダビデの力の限りに踊った踊り、それはまさに礼拝です。讃美であり祈りです。

何よりも人の前に立ってでなく、主のみ前にあって自分を立ててくださった主に対

する畏れ、感謝、讃美、責任、主によって託されているすべてのことへの思い、そ

れらすべてを含んで、主のみ前にあって激しく体を動かしています。自分の威厳や

権威を人々に印象づけることとはおおよそ違って神のみ前にある素朴な姿です。

 わたしたちの礼拝、主イエス・キリストの御名による礼拝はこれ以下のものであ

るはずはありません。パウロは、「わたしたちが正気でないとすればそれは神のた

めであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリス

トの愛がわたしを駆り立てているからです。」(コリント二5.13f)というような、

キリストの愛にわたしたちも直面しているからです。

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