11月03日
1996年11月3日

「ノアの洪水(一)」

創世記6章1−22


 ノアの洪水の物語がはじまります。古代のバビロニアのギルガメッシュ神話の中

にも、これとよく似た洪水神話があり、明らかにその影響を受けていると言われま

す。また世界の各地の創造神話の中にも洪水神話があって、あるいは地球の氷河期

の転換がもたらした洪水の記憶が神話という形で残されているのかもしれません。

しかし、ノアの洪水の物語ははっきりとした神学的意図をもっていて、その線にし

たがって描き出されたものです。

 神学的な意図とは何か、それは、洪水の前提となるこの世界の状況の描写からし

て明らかです。「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計って

いるのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。「こ

の地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは

堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」。洪水は、自然の現象

や神々の戦いではなく、神によって造られた人間の悪、堕落によるものだというの

です。人間の歴史は、進化と発展の歴史ではなく、「堕落と不法」が増していく歴

史だという判定、これはあまりに不当な悲観的な人間の見方でしょうか。洪水以後

の人間にしても、どんなに知識や技術が進歩しても、戦争と大虐殺のなまなましい

ニュ−スを聞き、平和への道を悟り知っているとはいえない現状を見ると、抗議の

声は弱々しくなってしまいます。それ故、「彼らのゆえに不法が満ちている」ので

、「これを地からぬぐい去ろう・・・地もろとも彼らを滅ぼす」、その声に今もお

びえなければならない世紀末の現状です。

 ここには、人間とこの世界は、何をしても許されるというものではない、神の創

造の秩序があって、これを正しく守るのでなければならないというはっきりした主

張があります。また、神は、創造の秩序が侵され、暴虐と破壊が行われるとき、そ

れを遠くから眺めているだけではなく、はなはだ残念に思い、後悔し、造ったこと

を思い直すほどに深い関心を持っておられること、そして、そこから激しい行動を

起こされることを明らかにしているのです。沈黙している神、御顔を隠される神よ

りはるかに活動的な神です。ここに、主イエス・キリストを十字架によって処刑し

、わたしたちの罪のあがないを全うするのでなければ、暴虐と不法の真の解決はな

いとされる神の姿を見ます。しかし、まだ究極の事態ではありません。洪水による

滅亡とノア、休息の子、慰めの子によって、しばし生き延びるというかたちで、人

間の堕落と不法の歴史は一つの決着と、また救いを得るのです。

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